Jou光

  • 親父
    彼は子供の時から絵が上手いと、親の欲目で思っている。目の前でさらさら描かれると、ついつい感嘆してしまう。世の中いっぱい絵の上手い人はいるが、この道で飯が食えるのはスポーツ選手と同じで極一部。でもとにかく趣味でも良いから絵を描くことは続けて欲しいと願っている。

春爛漫

  • ぼけの花
    柿茶の里は徳島県美馬郡つるぎ町に位置する。柿の葉の生産農家へ毎年春と秋に行く。春はことさら美しい。桜が咲き乱れ山の木々が新緑に包まれる。澄んだ青空に身も心も洗われる気がする。

アユタヤ遺跡

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    1491年に建てられた王族の守護寺院。3つの大きな仏塔には、ラーマティボディ2世と父、兄の遺骨が納められています。 寺院ではありますが僧は居住せず、王の礼拝堂として王族の儀式に使用されていました。この寺院もまた、1767年ビルマ軍により破壊され、16mあったという金で覆われた仏像も金を奪われた後、壊されてしまいました。

暁の寺院 タイ

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    トンブリ王朝時代の守護寺で最高位の寺院とか。きらきらと輝く陶器の破片に覆われた高さ約79mの大仏塔は、ラマ3世により5年がかりで改装された。朝日を浴びた大仏塔の神々しい姿が”暁の寺”の名前の由来。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

  • Pict0201
    セイロンへの留学から戻ってきた僧侶のために、1357年初代王ウー・トーンが建立しました。仏教寺院は瞑想の場として使用されていました。現在も多くの仏教徒が訪れ、週末は観光客でにぎわいます。

水上マーケット

  • Pict0116
    ダムナン・サダックの水上マーケット。その昔、”東洋のベニス”と言われたバンコクでは、日常的商取引には運河が利用されてきた。水上マーケットは、古き良き時代の情緒溢れるバンコクの生活を体感させてくれる。 

2008年7月 タイ王宮

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    白壁に囲まれた20万㎡の敷地内には、1782年に建設された国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などチャクリー王朝歴代の王により建造・改築された建物が建ち並んでおり、ラマ8世までは実際にここに住まわてていたとか。

涅槃寺

  • Pict0386
    タイ語で Wat Pho(ワット・ポー)と呼ぶこの寺は、ラマ1世が建立したバンコク最大の境内を持ち、バンコク最古の歴史を持つ寺院。本堂には写真のようなリクライニング・ブッダの愛称で親しまれている寝釈迦仏が横たわる。足の裏には螺細細工でバラモン教における108の宇宙観が表現されていると言う。

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金魚

  • 金魚

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西湖いやしの里 根場

富士山麓の西湖にある「いやしの里 根場」に行って来た。「ねんば」と読むそうな。

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水車小屋が受付になっていて入場料を払い中へ。

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すぐ近くの ” 茶処 清龍亭 ” でお茶休憩。

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この設備は何? 記念碑によると、

1966年9月25日、台風24号による連日の雨で雨量は270㎜を記録、そこへ台風26号による記録的な豪雨が追い打ちをかけ土石流発生、一気に沢を下り根場集落を直撃した。

これにより、当時41棟あった茅葺民家のうち、37棟が全半壊して集落は消滅してしまった。

それから40年を経た2006年、災害で失われた美しい茅葺集落の原風景を復活させ、地域の歴史や文化・この地ならではの自然環境を生かした新たな観光を創出することを目指し完成したのが、20棟の茅葺家屋を中心とした「西湖いやしの里根場」。

古材を用いて当時のままの兜造りの茅葺屋根を再建すると共に、炭焼き小屋や、蚕を育てる養蚕室も再現している。

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復活した茅葺屋根には17年の時を経て、災害前の苔生す姿を取り戻したようだ。

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↓ 5,000枚の折り鶴で造った葛飾北斎の ” 赤富士 ”

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↓ 砂防資料館 昭和41年の土石流災害を記録にとどめる資料を展示している

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↓ 根場八幡宮(左)と四所神社(右)

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↓ 薬明神社

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ここからも富士山が見える 偉大だ

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10年目

今年(2023年)の1月31日で心臓を手術をしてから10年が経過した。

10年前の高知の安芸マラソンで途中しんどくなり、歩いた事が気になって病院へ行った事がはじまり。

エコー検査で心臓の冠状動脈がすべて詰まっているとの診断を受け、家に帰って入院の支度する暇さえ与えられず即入院。

バイパス手術をする事になったが、もうひとつ大動脈弁が劣化して送り出した血液の半分が心臓に逆流しているとの事。

そこでその弁も取り替えるはめになった。

その弁を機械弁にするか生体弁に置換するか?の選択を迫られ、10年は持つという生体弁にした。

何が違う ? と言うと、機械弁は半永久的だが血液サラサラの薬が欠かせない。

生体弁はその薬は不要だが寿命が10年くらいだと言う。

当時69歳だった私は10年経つと79歳、人生80年も生きれば十分と思った。

それに血液サラサラを飲み続けるのも、何となく嫌な気がした。

そして今年はその10年目。

また弁を替えればもっと長生きできるだろうが、私にその気はない。

手術では心臓を止めるため、血液を人工心臓で循環させるのは身体の負担が大きい。

前はその後遺症で、多臓器不全となり術後生死の境をさまよった。

だからもうその経験はしたくないし、もう人生これで十分と思っている。

若い時は死ぬのが怖かったから、違う選択をしたに違いない。

生体弁の寿命は人により違うと聞く。

アト2~3年は持つかも知れないし持たないかも知れない。

まぁ~それが私の寿命・・・。

人は一度は死ぬんだから。

伊是名島へ その2

島の中の居住地はこんな感じ ↓

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家の周りに石を積んでいる・・・防風林ならぬ防風石とでも言うのだろうか。

放牧地で牛がのんびり ↓

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↓ 尚円王御庭公園  左は尚円(金丸)像

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この公園は尚円王 生誕 580年を記念して1995年に開園。

園内には尚円王のへその緒を埋めたと言われる「みほそ所」や尚円王が産湯をつかったと言われる「潮平井(スンジャガー)」「金丸銅像」などがある。

尚円(金丸)は1415年 伊是名 諸見の生まれ、24歳の時島を出て沖縄本島に渡り、数奇の運命を経て第二尚氏王朝の開祖・尚円王(在位 1470~1476年)となった。

↓ 園内にあった ”モモイロ・イペー」 名前は松本さんが教えてくれた。

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↓ 北海道には遠く及ばないが島随一の直線道路

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↓ シラサギ展望台から見渡す風景 きれい

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↓ 伊平屋島番所跡

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↓ 銘苅家 国指定重要文化財

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銘苅家 は琉球王朝第二尚氏王統の始祖・尚円王の叔父を祖とする旧家で代々伊平屋島の夫地頭職を務めた。

↓ この日泊った民宿

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明くる日、9時のフェリーで運天港に返って来た。

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これで伊平屋島、伊是名島 両島の観光が終わった。

アト、行ってない付近の島は水納島のみ。

 

航空写真

飛行機に乗るのは大好き。

外の景色を見るには窓際がいい。

ただ困るのはおトイレの時、だから長距離ではたいてい通路側にする。

沖縄・神戸間は何とか我慢ができる距離だ、空いていれば決まって窓側にする。

沖縄からの帰り、鳴門大橋上空を通過した時の写真 ↓

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なかなかこんな風景は日常見られない。

↓ 淡路島上空 たくさんの風力発電がある

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↓ 淡路島のほぼ全景

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↓ 沖縄へ行く時

伊平屋島

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伊是名島

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古宇利島

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伊江島

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那覇空港上空

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なかなかいい! なかなか面白い! 飛行機はいい!

 

柿茶 お客様の声

最近気付いたのですが、髭を剃る時、ほくろから血が出ることは全くなくなりました。

調べるとほくろの出っ張りが低くなり、顔のシミも色が薄くなったような気がします。

これは正に柿茶のおかげとしか言えない。

恐るべし柿茶ポリヘノールとビタミンCの効果ですね。

 

以上は私が書いた「お客様の声」

しかしこんなに長い声も投稿された。ビックリポン!

私は〇〇 〇〇と申します。昨年の8月から貴社の粉末茶を通してご縁が始まり、現在2袋目です。

皆様の体験談のように「飲みやすい」とは思いませんが、「柿の葉茶効能」の意外な結果が出たので報告させていただきます。

が、これからお話しすることは「美しい」と言える内容ではありません。

(でも、結果は「見た目が美しい」となります)

 一昨年の春頃から左足の「人差し指と中指の間」に赤い線が出てきましたが、何の不調も感じませんでした。

指の間を広げると、「痛い?」カナ? 程度だったので、放置していました。

 ところが、徐々に進行していて、赤い線が足甲側から裏側まで長くなり、1mm幅に太くなり、指間を広げると確実に痛み、皮膚科で「水虫」と診断され、ゼリー状の塗り薬が処方されました。

寝る時、指間にタップリ縫って靴下をはいて寝る。日中も,勿論タップリと。

 何もしなかった時よりも一日中蒸れを感じて、1日塗って側止めました。それに何の変化も見られず、気持ち悪さを感じただけ。

でも何かしなければ。。。。

1. 先ず第(1)の実験;

  緑茶の「抗酸化作用」を思い出し、飲用後のお茶パックで指間の赤い線(水虫の部分)に緑茶液を5~6回パッティングしました。液を充分に染み込ませるために拭き取らず、自然乾燥をしました。

2.第(2)の実験;

その頃近隣農家さんの乾燥柿の葉をミルで細かくして飲用していたので、柿の葉にも「抗酸化作用」があるから「緑茶∔柿の葉茶」パッティングを始めました。翌朝確かに薄っすらと膜が張った?何かが違うように見える。
が、
「時間がかかり、動けない」という欠点が有る。

(私自身は試さなかったが、「柿の葉」で柿茶湯を作り、足湯をしても効果が有るかもしれないし、拭き取りも可能だろう)

3.第(3)の実験;

「柿の葉茶」を加えたら変化を感じた。ということは柿の葉茶にこそもっと何かが在るのでは?

有りました。柿茶本舗さんの「薬学博士が話す多彩な効能」の中に、「突然変異抑制作用」;”柿の葉タンニン”は、~~  その回復を助ける作用を示す。

また、ある酒造メーカーさんのネットでは、「”柿渋”の主な役割は、『防虫・防腐・防水・薬』など、、、」と書かれています。

ネットで柿の葉の効用を調べた時、貴社「柿茶本舗」さんの「有機柿茶の粉末」を購入し、飲用分と薬用分(少量を小さな容器)に分けました。

お風呂上りに、足の「親指と人差し指、人差し指と中指」の指間の赤く切れ広がった水虫部分に、爪楊枝の持ち手側にほんの僅かな量を乗せた「有機柿茶の粉末」を塗り付け、余分な粉があれば落として、そのまま靴下も履かずに寝ました。

翌朝、切れた表面は乾燥したままで薄っすらと膜が張ったような感じ、赤身も昨日より引いている。

夜の入浴時間まで、そのまま靴下を履いていても朝の状態が続いている。たまに忘れて塗らずに寝ると、翌朝の状態は赤い線が少し濃くなっています。

この「有機柿茶の粉末」塗りを毎晩続けている間に、切れ広がっていた部分の赤身が無くなり、切れ跡が小さくなってきました。今は赤身もなくなり切れ跡も殆ど見えません。

「抗酸化・抑制・防○・等」の、どの作用が働いたのか判りませんが、私個人には確かな結果を得られました。

 薬を塗っても長期戦と言われる嫌われもの、気長に対処していかなければ。

『簡単・キレイ・ベタつかない・蒸れない』の粉末塗りですから、続けられそうです。

4.第(4)の実験;これは「口内炎」に関して

 最近頻繁に口内炎を引き起こすようになりました。ドライマウスも関係していると思いますが、発症すると血豆のように膨れ上がり、破れると口の中が大変な状態になります。

ネットでドライマウスには「『昆布水(昆布茶は濃塩分のため表示量の3倍希釈』でうがいをすると、昆布の旨味成分が旨味を感じる神経を刺激して唾液が分泌される」と書かれています。

 ならば、「柿の葉粉末茶』を患部に塗り付けてみました。足と同じように表面が膜が張ったような感じです。しかし、粉は溶けて患部から落ちてしまいます。そこで昆布水を真似て、柿茶を飲み込む前に口にしばらく含んで幹部を湿らせたり、「2~3回」うがいをしてみると、同じような効果が有りました。

 もう少し回数を増やしたらどうなるか。「5~6回」したら口の中の渋さが勝り、口内の滑らかさを感じるところではありませんでした。(適量というものが有るようですね)

この口内炎の場合は、「柿渋入り歯磨き」も併用しているので、相乗効果が有ったのかもしれません。しかし、先の{薬学博士~~の中の『喰延食品』に書かれているように、柿の葉に含まれている柿渋の「口乾効果」は大です。

 貴社の無農薬・無化学で造られた「柿の葉粉末茶」をいろいろ試させていただき、またその過程において柿についてのことも知る機会になりました。他商品を試したことが無いので同様の効果を得られたかどうかは(?)ですが、、、、、

 ただ一つ『貴社商品の『無農薬・無化学』で育てられた柿の木が、大地と太陽の自然の力を発揮してくれた」のではないかと思います。貴社と農家さん、共同の良質な商品に巡り合えて、とても嬉しく感謝いたします。そして私のこの実験体験が他の方々や柿茶本舗さんのお役に立てれば嬉しく思います。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。これからも益々のご発展を願っております。

岡山城

昨年の2022年11月3日、岡山城の大改修が終わったというので行ってみた。

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岡山城は、旭川の流域にあった3つの丘のひとつ ” 岡山 ” に宇喜多 直家が本拠地を構えた事がはじまり。

その子・秀家が1597年に岡山城を完成させた。築城は豊臣秀吉の指導によるものと言われる。

岡山とよばれる丘の上に本丸を移し、旧河道を利用して旭川の流れを変えて背後の守りとした。

同時に商人や職人を集めて立ち上げた城下町が今の岡山の礎。

慶長5年(1600年)、秀家は関ケ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗れて八丈島へ流される。

その後小早川 秀秋、次いで池田家が城主となり明治維新まで続いた。

天守は外壁の下見板が黒塗りだった事から「烏城 」の名で親しまれ、また他に例のない不等辺五角形の天守台を持っ。

1945年の空襲で焼失し1966年に再建された。

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お城の中は近代ビルさながら、地下1階より6階まであり、エレベーターが4階まで通じている。

一階にはカフェもありコーヒーを飲みながらくつろぐ。

金鯱瓦 ↓

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岡山城には8個の金鯱瓦があり1966年の天守再建の時に取り付けられ、平成9年の築城400年を機に改修し金箔が貼られた。

鯱は顔が虎、姿は魚と言われる想像上の動物で口から水を吹き出し、災いや火を消してくれるという伝説から重要な建物に火除けの守り神として飾られるようになった。漆を接着剤代わりにしている。

↓ 国宝 ” 月見櫓 ”

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本来の目的は城外への備えだが、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだり、小宴を催すのにもいい構造となっている。

月見櫓に接する石垣には内側から鉄砲で狙い撃ちするためのすき間がくりぬかれた銃眼石があって、櫓と一体で軍備力をUPさせている。

これと同じものは他に江戸・大阪・二条のお城のみ・・・と帰り際に捕まったガイドボランティアに自慢そうに言われた。

寒い

岡山県のお城へ行く川辺にたたずむ銅像。

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ここで一句 

銅像に誰が着せたかコートとマフラー 待ち人来たりなば春近し

お粗末!

第161号 心と体の健康生活:令和 5年 1月 25日発行

第161号 心と体の健康生活:令和 5年 1月 25日発行

■ 発行:健康への道しるべ友の会 編集 増田 桂子

■ 〒420-0962 静岡市葵区東1-14-31、Tel:054-245-8141、Fax:054-245-6142

■ 年間 購読料:2,500円

今回の見開きページは『 皮膚を鍛えよう』

参考文献 「西 勝造著作集」・「 西医学健康原理実践宝典 」より

Mitisiruba

 

続 日本人の食と病気の変遷あれこれ(前回からの続き) By 豊岡 倫郎 氏 2023-1-30

前回からの続き

9.安土桃山時代(1500年代後半から)

 群雄割拠の戦国時代に入ると、各地に現れたのは、武力、知力に優れた武将たちであった。領地をめぐり、闘争が繰り返されていった。1568年織田信長が上洛するまで続いた。その後豊臣秀吉が1590年に天下統一をする。この時代医学の進歩はあまり見られなかった中で、僧から医師に転身した曲直瀬道三(まなせどうさん)は東西の医学の文献に通じ、陰陽五行説に基ずく陰と陽のバランスのとれた食事を、日本の土地で採れる米、魚、大豆、野菜をすすめている。そして「養生は与えられた天寿をまつとうし、生を完成させるために必要なのだ」と言っている。信頼を得て、足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、明智光秀などに治療を施している。戦国武将の、上杉謙信48歳で脳出血、武田信玄52歳で胃がん、毛利元就74歳で、死因不明、豊臣秀吉61歳で、死因諸説あり、加藤清正42歳で梅毒で死亡。

この時代、千利休が茶道を確立して,懐石料理が生まれ、そこには「一期一会」の精神が生かされている。一期一会とは、その場その場の出会いを大切にする、という意味である。味噌や醤油の製造がほぼ完成した。

1543年に鉄砲伝来、1549年フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸し、ポルトガル、スペインと南蛮貿易が始まると、野菜・果物類では、スイカ、カボチャ、玉ねぎ、サツマイモ、ジャガイモ、トマト、ホーレン草、イチジク、ブドウが国内で栽培され始めた。天ぷら、がんもどきの油で揚げる調理法も生まれた。お菓子では、カステラ、金平糖、ビスケット、パンが伝えられた。鉄砲、火薬、毛織物、絹糸、香料、白砂糖も入ってきた。

10.江戸時代(1603年から)

 1600年関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は江戸に幕府を開いて、285年間続いたその間に、15人の将軍が入れ替わった。

 家康の健康法は、普段は麦ご飯に、みそ汁、おかずが1品か2品で、イワシの丸干しや煮付けをよく食べた。加藤清正や前田利家は玄米ご飯を食べていたと記録に書いてある。当時の武士は麦ご飯か玄米を食べていた。白米に比べて玄米は栄養素が豊富で、カリウム、マグネシュウム、鉄、ビタミンB1,B2、食物繊維が抜群に多いから、またよく噛んで食べていたから、健康効果があつた。

因みに家康は73歳で亡くなった。側近として健康アドバイをしていたのが、107歳まで生きた天海僧正だった。家康にすすめたのは粗食で、粗末ではなく、飾らない食事のことで、その土地の、新鮮な食材を使い、あまり手を加えずに、食べるように助言した。家康が体調を崩したときは、納豆をみそ汁の中に入れたものを食べさせたという。家康の死因は鯛の天ぷらによる食中毒と言われているが、胃か食道などの消化器ガンという説もある。

 戦争の心配もなくなり、太平の世となったこの時代は、食べて体を作ることから、食べて楽しむ時代に変化してゆく。この変化が今までなかった病気を発生させた。食事の枠組みは、米を主食とし、副食は魚や野菜類を食べるという、米中心の食事方法が定着した。しかし玄米ではなく、白米を食べ始めたために、当時「江戸わずらい」と呼ばれた「脚気」が流行し始めたのである。3代将軍家光は47歳で亡くなり、4代家綱、13代家定、14代家茂が脚気で死亡している。

 そして1日に従来は2食だったのが、江戸時代中ごろからは、3食が一般的になった。だから1日3食の歴史はわずか300年しか経過していないのである。そば、てんぷら、握りずし、ウナギなど色とりどりと増えて、店屋、屋台での外食することも増えた。江戸末期には、江戸の町に蕎麦屋が3760軒、すし屋が7000軒以上あった。うどんは好まれなかつた。

 この時代には社会制度も代わり、士農工商という身分制度が出来たが、唯一の例外が、医師だった。誰でも何年も修行して、師匠の許可を得れば、医師になることができた。医師は頭をそり、僧の姿をしいた。治療の中心は、漢方薬と鍼で、大陸の伝統医療に日本の風土、体質に合わせた独自のものが発展した。当時江戸の人口は1000万人くらいで世界一になっていた。人も増え、交流も盛んになると、天然痘、はしかが流行、子供の死亡率が高かった。南蛮貿易と共に梅毒が日本に入ってきて、罹る者も出てきた。蘭学を長崎で学ぶ医師もいて、全国から医学を志す人が師匠の門をたたいた。福沢諭吉も緒方洪庵の門下生だった。

 1713年に「養生訓」を書いた貝原益軒は大学者で、50年間に98部、247巻の書物を著わした。内容には、「命あることに感謝して、節度お守り、旬のものを、脂っこくないものを食べ、腹八分にすること。また病気でない時こそ病気のこと思え、健康を過信せず、予防を心がけるべきだ・・・」と。1774年に杉田玄白、前野良沢が「解体新書」出版している。ドイツ人が書き、オランダ語に訳されていたものを、苦労して、日本語に訳したもの。1804年和歌山の医師華岡青州が世界で初めて麻酔薬を使って、乳がんの手術を行った。有吉佐和子が小説化し「華岡青州の妻」書いている。

11.明治時代(1868~)

 新政府は、当時医学、薬学が進んでいたドイツから明治4年にドイツ人教授を迎え入れ、西洋医学教育を開始した。1876年に東京医学校の教授として招かれたエルヴィン・ベルツもそのひとりで、29年間滞在して、日本の医学発展に貢献した。逸話のひとつに、こんなのがある。草津温泉まで人力車で通っていた時、車夫に、お前は息も切らさず、元気なのは、何を食べているのか。車夫は、玄米とたくあんですと、答えると、肉を食べよと、勧められて、食べたところ、疲れて車が引けなかった、という話。草津温泉にベルツ記念館がある。

 明治28年政府は国家試験に合格して、西洋医学の免許を持たない漢方医は医療行為を禁止された。明治から大正にかけて、コレラ、赤痢、天然痘、腸チフス、結核が流行して、多くの人が亡くなった。日本でも大正7年からスペイン風邪が流行して、38万人が死亡している。明治6年に天然痘の予防接種が義務化されている。明治中頃から末期にかけて、注射器、顕微鏡、X線撮影機が輸入されて、医療技術も進歩してゆく。

明治27年日清戦争が、明治37年には日露戦争が勃発。この両戦争において、陸軍では脚気で31800人の兵士が死亡した。一方海軍では軍艦、龍譲と筑波の乗組員709人の内、死亡者25人だった。この件に関して脚気論争が起きた。陸軍の軍医総監の森林太郎(後の森鴎外)は脚気菌による感染症だと判断した。一方海軍の軍医総監の高木兼寛は食事を白米から麦飯やパンに変えた為に、脚気発生防いだ。森の判断ミスで何万人の兵士が戦わずして、白米で命を落とした。その後高木は慈恵医大や初めての看護学校を創設した。

12.大正時代(1912年~)

 都市部では食の多様化が進んで、牛鍋、カツレツ、カレーライス、トンカツ、コロッケ、ビール、チョコレート、キャメル、バター、牛乳など洋食が普及し始めた。福沢諭吉は咸臨丸に乗って、アメリカへ渡航して、アメリカ人の食事を体験して、日本人の体格にコンプレックスを持ったのか、帰国後に肉食と牛乳をすすめた。学問のすすめならぬ肉食のすすめだった。

 アメリカでは1977年のマクマガン報告による肉食の害を認識し、政府は食生活の改善を進め効果を上げた。一方日本では欧米崇拝の機運が食生活にまで及んだ。食の欧米化は日本人の風土、体質、食性を無視するもので、やれスイーツだ、焼き肉だと、浮かれて、暴飲暴食を止めない限り、病人は減らない。歴史の教訓が生かされていない。2013年和食が日本の伝統的な食文化として、ユネスコに登録された。今の高脂肪、高蛋白の高栄養食が決して健康をもたらしていないことを認識しないのは、何故か。子供の時の学校給食のパンと牛乳で洗脳されたのだろうか。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどの子供はその国の伝統食を今でも食している。    

おわり

伊是名島へ

伊是名島へ行って来た。

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前に伊平屋島には行った事がある。

運天港から伊是名行きと伊平屋島行きの別々のフェリーが出ている。

「フェリー伊是名 尚円」と「フェリー伊平野」。

同じ船で 運天港 ⇒ 伊是名島 ⇒ 伊平屋島 へ行けばいいものを・・・と、勝手に思う。

切符売り場は同じ建屋内にあるが、ここも北と南に別れている。

↓ 左が伊平屋行き、右が伊是名行き

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船も、

↓ 左が伊平屋行きフェリー、右が伊是名行きフェリー

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伊平屋へ行った時、船がドック入りだったから伊是名行きのフェリーが代行していた。

だからこの船に乗るのは2度目だ。

ちなみに船の所要時間は伊平屋が 80分、伊是名が 60分。

↓ 仲田港 到着

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「 ハブのいない伊是名島」とでかでかと書いてある。と言う事は他の島にはいるっていう事か。

レンタカーを借りて島を回る事にした。

お昼も近づいたのでまずは腹ごしらえ、フェリーで見つけた「太陽食堂」へ。

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なかなかおしゃれなメニューだ。

「カレー麺・ジェノベーゼ・トマトスープ麺・ジャージャー麺。ねぎごはん」など等。

この島で採れた米粉を使っているらしい。

ここで伊是名島のご紹介。

伊是名村は沖縄本島の北方に位置し、総面積 15.44㎢ で無人島の具志川島・屋那覇島・降神島の島々も含む。

人口は約1,600人弱。

主な農作物はサトウキビで島内に精製所もある。水産業はモズクの養殖が盛ん。

またここは、1470年から明治に至る409年の長きにわたり琉球王朝を築いた第二尚氏王統の始祖・尚円王(金丸)生誕の地。

↓ 尚王の像

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沖縄本土を指さす若き尚王。

つづく

蛇 足

具志川島に、世界的なリゾート開発グループが、モルディブっぽいコテージを計画しているとの新聞記事があった。

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ほんとにできるのかなぁ~ ???

最近、雲に興味津々。

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正に雲は自然がつくる芸術作品。素晴らしい~。

絵手紙 作品

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” NPO法人健康を考えるつどい ” の「絵手紙教室」の作品です。

牡 蠣

息子嫁の家族からお誘いを受け 牡蠣を食べさせてくれるお店に行った。

その名も「カキ小屋いし本」、丸亀市西本町にある。

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長いこと香川に住んでいるが、こんなお店があるとは・・・ビックリぽん。

前にも鮎を食べるお店にも誘ってくれたっけ。

この時も鮎ばかり2~3匹で十分と思いきや、食べ出すと入るは入るは 20 匹以上も食べたような気がする。

倉庫のような場所で ↓ 

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縦 50cm 横 70cmくらいの広い鉄板にアルミホイールを引き、その上に殻付きの牡蠣を並べて焼いてくれる。

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まぁ~うまい旨い!

食べるは食べるは 一人2Kg(但し殻付きで)以上食べたんじゃないかなぁ~。

大満足の一日でした。

ごちそうさまでした。

青パト

自治会長の仕事のひとつに子供達の安全を守るパトロール業務がある。

坂出市の中央地区には20以上の自治会があるので、そこのセィフティーネットワークの一環として

会長が輪番制で業務にあたる。

写真のようなパトカーに似た車で市内を二人体制で回る。

屋根に青いパトロール灯を付けているので青パトと呼ぶらしい。

一人は運転、一人は助手席で子供たちの通学行動を見守る役目。

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パトロールの時間帯は午前7時から8時までと午後15時から16時まで。

要は小 中 高 校生の通学・帰宅時間帯に合わせているが、午後と午前ではパトロールの目的が違う

午前は文字通り生徒への安全喚起、午後はどちらかと言うと不審者へ ” パトロールしているぞ ! ” との警告。

あらかじめ車にアナウンスがセットしてあって、それを流しながら走る。

スピーカから流れる文言は「 知らない人には付いていかない ! 寄り道しないで真っ直ぐ帰ろう~ 」など。

初めて経験する私は、助手席で子供たちを見かけると手を振るしかできない。

昨年も計画があったが、中止や車のパンクで今年1月11日が初体験。

一時間で同じところをぐるぐる回った。1時間は結構長かった。

高原 茂嘉 氏

第35回日工会 工芸美術四国会展が2022年12月7日にOPEN。

嫁の義兄・高原 茂嘉氏の作品も展示されているとの事で見に行った。

会場風景 ↓

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高原氏作品 ↓

萌 生

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時空の扉 Ⅰ                 風廻る 

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時空の扉 Ⅱ

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認知症

認知症は私には関係ないと思っていた。

ある程度は遺伝と勝手に思い、私の母が亡くなるまで頭はしっかりしていたから大丈夫・・・と。

毎日 寝床についた時、今日一日の行動を振り返る。

朝 7時に起床、8時に散歩で聖通寺山へ登る、その後 柿茶の会社でNPO関係の事務処理、その後・・・と言う具合に。

毎日の行動パターンが大体決まっているから、振り返るのも容易。

でもでも・・・次男が帰郷し あちこち車で88ヶ所巡りとか観光地へ行った時、行動先が多すぎるのか・・・思い出せない事に気づいた。

えっ~こんな筈じゃ・・・???

そんな時 NHKで「プレ認知症」なる言葉を聞いた。

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これに当てはまるのでは?と思い始める。

軽度なら戻れる・・・。

2023年 年賀状 

新春を迎え 皆々さまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます 

       本年も宜しくお願い申し上げます

もう厄年は全て通り越したのに 昨年は私にとっては当たり年だった

まず春先、兄弟旅行で行った豊岡で肋骨を4本も折り 24日間も異郷

の地で入院した事。二つ目は自治会の会長を嫌だ嫌だと言うのに押し

付けられ引受けた事。三つめはロシアによるウクライナ侵攻で、毎日

毎日悲惨な光景を見せられ 心が痛む事

そして世界の分断が急速に進んでいる事・・・等

でも良い事もあった。時の流れは早く初孫がもう中学校へ入学した事、

夏には長男夫婦がリモートワークでひと月ほど帰郷し一緒に暮らした事、

三つ目はコロナに罹らず自由にあちこち旅行へ行けた事、特に仙台や

草津への旅は深く思い出に残った

3年目に入ったコロナも、5回のワクチン接種済みの私には全く関係なく 

なったが、未だ鬱陶しいのは公共でのマスク着用、周囲に目立たぬように  

偽装するのにはもう疲れた

早く2類の指定感染症から5類に引き下げられねば、海外旅行もNPOの

活動も自治会の活動も再開できない

ところで今年は心臓の大動脈弁を生体弁に置換して10年目を迎える

弁の寿命と言われているが、もう替える気はないので・・・

どうなる事か。

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↓ NPO法人健康を考えるつどいの年賀状

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日本人の食と病気の変遷あれこれ By 豊岡 倫郎 氏 2022-12-26

1.長寿国の日本はどうして生まれたのか

2013年12月に日本の和食が「日本人の伝統的な食文化」として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。世界で長寿国として、一、二位を争っている日本には、伝統的な和食が世界に認められたからだろう。そこで日本人の食の歴史を振り返ってみて、温故知新としたい。

2.食と病気の歴史

1)縄文時代の日本最古の遺跡

日本列島に人が住み始めたのは、島根県にある遺跡から12万年前頃の石器が見つかっている。

これが日本最古の遺跡と云われている。縄文人が大陸から日本に渡来したのは、1万8千年前から3万8千年前という。その頃の代表的な遺跡に青森県の三内丸山遺跡がある。主食はクリ、クルミ、ドングリなどの木の実と魚介類であった。人口は約26万人くらいだったらしい。

2)弥生時代に稲作の伝来

縄文時代に續き、弥生時代が紀元250年頃まで続くが、稲作はこの時代に九州から、近畿、東北地方に広まっていった。人口は約60万人位と推測されている。有名な遺跡に吉野ケ里遺跡、登呂遺跡がある。

紀元前221年に中国では秦が中国を統一して、皇帝として始皇帝か登場した。その時期に噂として広まっていたのが、「東の海に浮かぶ蓬莱島に不老不死の薬を持つ仙人が住んでいる」と。始皇帝は家臣の徐福に命じて、仙薬を探しに行かせたのである。結論として徐福は中国に戻らなかったようであるが、日本には今も徐福伝説が至る所に残っている。佐賀、鹿児島、宮崎、三重、和歌山、山梨、京都、愛知県など沢山あり石像まで建てているところもある。

3)古墳時代(西暦250~)

魏志倭人伝は西暦290頃に書かれたもので、そこには、この頃には稲作をして、魚や野菜を食べていたと記されている。邪馬台国の卑弥呼の存在の記述がある。なお邪馬台国がどこにあったかは今も謎のままである。倭の人は性格が折り目正しく、大変長生きで80歳あるいは100歳まで生きる、と書いてある。当時の日本人が長寿であるという記述は、五世紀に中国で編纂された「後漢書」にも書かれているという。

鉄製の農具が発達して、米以外にもアワ、ヒエ、小麦も作られた。外に小豆、大豆、カボチャ、大根、瓜なども栽培された。結核が弥生時代に大陸から入ってきて、この頃の人骨から多く罹った人がいたことが判明した。538年百済から仏教伝来。

4)飛鳥時代(592~710年)

645年大化改新。天然痘が大陸から入ってくる。鍼灸,按摩、呪術が大宝律令に記載されている。マラリヤ、ハンセン病、チフス、赤痢など発生していて加持祈祷盛んになる。約60種類の薬草が使われる。675年に天武天皇が「肉食禁止令」を発布する。殺生を禁じる仏教の教えによるものだったのか。ただし野生のイノシシやシカは食べることが出来た。700年文武天皇が税として、蘇(そ)作り命じる。これは乳汁を加熱濃縮させた乳製品で、薬や神饌としても使われた。

5)奈良時代(710年~793年)

わずか83年間だが、天然痘が大流行し、大仏や国分寺を建て国家の安寧と民の幸福を祈願した。飛鳥時代からこの時代の貴族は牛乳を飲んでいたし、白米を食べて脚気になる人もいた。

奈良時代の医療は、仏教伝来と共に僧侶が、韓医方や随・唐医方の医学知識をもたらしたことで、僧侶が医師を兼ねていた。鑑真や弓削道鏡も朝廷内で医療に才能を発揮している。

6)平安時代(794年~1185までの約390年間)

808年に日本最古の和薬の処方集「大同類聚集」全100巻が典薬頭の阿部真貞と侍医の出雲広貞によって選集された。これは全国各地の神社や豪族に伝わる処方を症状別に書いたもの。更に 984年に日本最古の医学書、「医心方」(いしんほう)が編纂された。これは宮中医官であった鍼博士の丹波康頼が其の頃日本にあった203種の中国の文献から選集したもので、全30巻、医師倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されている。漢文で書かれていて、全30巻から成る。この本は現在国宝となっている。おでき、腫れものの治療にヒルを用いていた記述がある。この時代、寄生虫のサナダムシがお腹に湧く人も多かった。なお俳優の丹波哲郎は丹波康頼の末裔に当たる。これら二つの選集を槇佐知子女史が独学で全訳している。

時の太政大臣として権勢を振るった藤原道長は糖尿病を患った時に、のどが渇き、葛根を飲んでいたという。しかし病気が進行して、目が見えなくなり、10年あまり苦しんで亡くなったという。源氏物語の主人公のひとりは、藤原道長がモデルといわれている。当時の貴族たちの最期の拠り所は信仰で、やたらにあちこちに仏堂が造営された。そして活躍したのが加持祈祷を行う陰陽師だった。占いを行う人も朝廷の役人として認められていた。貴族の食事は贅を尽くし、接待料理として大饗料理が形成されたが、下級武士は品数が減り、一般庶民になると、質素で麦、アワ、キビ等の雑穀が主食の一汁三菜だった。平安時代の後期になると、天然痘、マラリヤ、赤痢流行する。平清盛がマラリヤで高熱を出して亡くなったようだ。

7)鎌倉時代(1200年代)

この時代に入ると、貴族社会から武家社会に変わって、大陸から留学していた僧侶たちが医学資料を持ち帰り、仏教が大衆に広がり、僧侶が医師として活躍した。武家出身の僧の梶原性全は大陸の医学書を基にして、全50巻からなる「頓医抄」(とんいしょう)を書いている。その中では、「病気を怨霊や神仏のせいにはしていけない、必ず理屈がある筈で、体の構造と働く仕組みを理解する必要がある」と。更に「慈悲の心を持って行えば、たとえ技術がつたなくても、効果があるものだ。欲深く、いつくしむ心のない者が広い知識を持ち、特効薬を山ほど用いても、効くはずがない」とも書いている。

もうひとりこの時代に、鎌倉極楽寺の僧の忍性(にんしょう)がいる。赤痢が流行したこの時代に、病人や貧しい人、孤児らの救済に奮闘した人物で、日本の仏教史上でもっとも衆生救済に尽くした僧とたたえられている。

他にも栄西がいる。栄西は中国に二度留学して、日本にお茶を広めたことで有名であるが、「喫茶養生記」を書いている。この本の中で「健康の基盤は5つの臓器、即ち肝、心、肺、腎、脾がバランスよく働くことである。そのためには、夫々の臓器に対応した味を持つ食べ物を適切に摂取することが大切である」と、食養生を重視している。禅僧による精進料理が広まった。また武士による本膳料理が形成された。これは料理を乗せた一人用の善がいくつも客前に並べられるのが特徴で、二汁五菜が定型で贅沢なものだった。

8)室町時代(1300年代) 今まで一日の食事の回数が2回だったのが、3回になり、品数も増えてきて、主食は玄米の炊いたものとおかずは魚類や野菜の煮物、漬物、梅干しなどを食べていた。味噌や醤油も作られるようになった。昆布だしや鰹節出汁、酢が使われるようになった。大陸との貿易も盛んになり、砂糖が入手しやすくなり、和菓子が作られた。

1467年京の都で応仁の乱がおこり、11年間続き、当時地震、台風、噴火、大飢饉が連続的に起こり、京都だけで8万人以上が亡くなっている。

次回へ続く

柿タンニン

柿タンニンはすごい! TVでやってた。

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↓ 特に新型コロナウイルスの感染力を失わせる効果があるという

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タンニンは植物に含まれるポリフェノールのひとつ。
太陽光や紫外線などで皮膚が黒化する事をタンニングと言い、それを防ぐために使われていた事からタンニンと呼ばれる。
そうか!それで柿茶を飲んでる人は肌がきれいなんだ・・・。

美肌を保つのにいい!

徳 島

徳島は大学時代の4年間を過ごした思い出の地である。

当時はひたすら下宿から学校までの往復ばかりで、観光地はおろか遊園地にも行った事がない

・・・と改めて思い出した。

だから徳島駅からすぐ近くの徳島城にも行った事はない。

この城は1585年阿波の大名になった蜂須賀 家政により築城された。

城地の選定は秀吉で、築城には比叡山の僧侶や隣国の長宗我部元親・小早川隆景が協力、翌年1586年に完成した。

しかし明治の廃城令で鷲の門を除いて惜しくも解体された。

↓ 在りし日の徳島城

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↓ 城の鬼門(北東)にあたる門が数寄屋門、別名「 不明門」と呼ばれ城内の凶事以外は開いた事がない門

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次に向かったのは徳島大学工学部。

昔の面影は全くなくノスタルジアにしばし浸ろうとの想いは打ち砕かれた。

写真右が工学部の建物、

卒業して50年以上が経つ今 面影などないのが当たり前かも知れぬ。

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徳島で良い事があった。

初日 泊るホテルで連れが大衆浴場が近くにないかとホテルマンに聞いていた。

たまたまクリスマスケーキを注文に来ていた女性が、その話をまた聞きして 声をかけてくれた。

「私の帰る途中にあるので乗せてってあげましょうか?」 と。

「えっ!いいんですか?」 「ぜひ是非」 「それではお言葉に甘えて・・・」

何と!親切な人

立場を変えて私なら、また聞きしても声はかけない・・・と思った。

ましてじいさん2人を女性である自分の車に乗せるなんて・・・考えられない。

でもその素晴らしい親切のおかげで、ゆったり広いお風呂に入り 山登りの疲れが吹っ飛んだ。

見ず知らずの方、本当にありがとうございました。

さすが徳島!

連れて行ってくれた「あらたえの湯」 ↓

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