火葬の文化
先日祖母の50回忌と伯父の33回忌の法要があった。お寺さんによると、記念すべき回忌とか。どちらも次の法事は50年後と17年後で、今の参列者はそれまでは生きていないだろうから、実質これで終了と言う意味らしい。50年をやれただけでも長生きを大いに仏様に感謝しなさいと言う事である。話は変わるが一向宗の読経は長い、真言宗だと40分くらいで終わるのに一向宗は2時間くらいかかる。だから中休みが二回もある。昔はさぬきのこととてその時うどんが出たが今はさすがに茶菓子に変わった。休みの時は参列者間でご無沙汰の挨拶やら身内の現況伺い、健康の話に会話が弾む。だから休憩時間も少々長くなる。お寺さんの話では家によっては参列者が一言も口を利かない所もあって、そんな時は休みもそこそこに切り上げるらしい。読経の最後に一言院主さんがのたまうのが常で今回の話は、木の葉が芽吹き成長しそして病ら葉となって土に返り次の命の基になる、と言う良く聞く人生訓。アトの雑談で、昔、土葬の時は肥やしとなったかも知れぬが、それが火葬に変わり肥やしになるどころか油を使って環境汚染までしている。チベットあたりでは鳥葬の習慣があり、死後もその肉体は役立っている。なんと理想的な葬り方ではないか。仏教では土葬や火葬について何か述べているのだろうか。アメリカのさる学者が、日本は国の指示があった訳でもないのに大衆自らが火葬の文化を取り入れた事に驚愕したとか聞いた。宗教や宗派の違いは人の死に関わる文化をそう簡単に変えられないのが常識と、彼は思っていたせいだろうか。でも驚愕するほどの事はない。土葬から火葬へと変ったのは人口の増加による土地と言う物理的な制約から来た已む得ぬ仕儀と心得るが。
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