宇高連絡船
鉄道省が管轄していた時は「省線」、その後日本国有鉄道になって「国鉄」、その後民営化されて「JR」と呼ばれる電車に、毎週坂出⇔大久保間をお世話になっている。瀬戸大橋線が開通して今年で20年を迎える。その前は坂出から神戸へ出張するのに高松から宇高連絡船に良く乗ったものだ。この船も青函連絡船と同じく国鉄のものだった。
宇高連絡船には讃岐名物のうどんを食わす店があった。船が就航した後に誰かのアイディアで造ったであろう立ち食いの店。軒下に横壁を張っただけの3畳ほどの小さな店。当時は今程うどんブームではなかったが、宇野から高松へ帰る讃岐人は先を争って行列を作った。彼方の町明かりを眺めながら、また近くは船が切る波間に刺激されて光る海蛍を眺めながら、青天井のデッキでうどんを啜った。私もその一人だった。
ウキペディアに書かれた「宇高連絡船の逸話」が当時のうどんの味を的確に表現している。「供されるうどんは、いりこか鯖ぶしの類による庶民的なだし汁に、製麺後時間が経ち過ぎてやや味の落ちた麺、という上等とは言い難いものであったが、香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった」と。当時の連絡船のうどん店を参考に「連絡船うどん」の店が高松駅に出来ているが、味は今どきを反映して時間が経ち過ぎてやや味の落ちた麺ではなさそうである。
宇高連絡船には悲しい歴史がある。1955年(昭和30年)5月11日紫雲丸が濃霧の中第三宇高丸と衝突して沈没し、168名が死亡した事故。この事故で、修学旅行の学生に多数の死者が出たことで、私の小学校時代の修学旅行も奈良から高知へ変更になったほど。船の名前が良くない、シウンマル(紫雲丸)は死運丸(死ぬ運命)に通じると噂さされた。それが発端かどうか知らないが連絡船の名前はその後「讃岐丸、伊予丸、阿波丸、土佐丸」と四国の昔の国の呼び名に変更となった。
良く父が出張で連絡船に乗って行く度に、船の安全を子供心に心配したものだった。この惨事が、瀬戸大橋ルート実現の大きな原動力となったことは言うまでもない。
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