百花詩集 17
昭和63年(その8)
・仮の世と 住み難くなり 吾が生は
いづくに行きて 終を迎えむ
・苗分けし椿 娘の家に 咲きにけり
・渇水対策練ると言う 朝に雨の降りて
久々のしめり千草芽生かむ
・朝早くことりと音して新聞の
配られ行くを寝床に聞きつ
・枯枝に 色濃き紅の梅の花
弥生の雨に凋落の艶
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
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昭和63年(その8)
・仮の世と 住み難くなり 吾が生は
いづくに行きて 終を迎えむ
・苗分けし椿 娘の家に 咲きにけり
・渇水対策練ると言う 朝に雨の降りて
久々のしめり千草芽生かむ
・朝早くことりと音して新聞の
配られ行くを寝床に聞きつ
・枯枝に 色濃き紅の梅の花
弥生の雨に凋落の艶
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
所在地:高松市仏生山町甲2566
祭神:稚日女尊
寛文九年(1669年)、高松藩主 松平頼重は雄山(オヤマ)にあった神社を東の雌山に遷宮して、下浅野・百相村(モマイムラ)の産土神とした。
社地である雌山(ちきり山)はまぐさ山とも言う。山の麓を含めまぐさの入会地であったと思われる。
また法然寺の門前に位置したので、前山とも言われる。「ちきり」は織機の一部で経糸巻である。
祭神の稚日女命(ワカヒルメノミコト)が日本神話に出てくる機織女であるところから、平池築造にまつわる人柱伝説も生れた。
悲しく美しい人柱
およそ八百年の昔、治承二年、村人達は深い憂いに沈んでいた。と言うのは平池の堤は幾度築いても雨が降るたび崩れ、田畑は水に流されて、普請奉行 阿波の民部田口成良も難工事にホトホトもてあましていた。
今日も京の都からは平清盛の厳命が届いたばかり。その晩疲れ果てて眠りもやらぬ成良の枕辺に、白衣垂髪の女神が現れ不思議なお告げを残して姿を消した。
「明日の牛の刻、白衣垂髪の乙女がチキリを持って通るであろう。その乙女を人柱として堤に埋めれば、工事はきっと成就する」と言うのであった。
まんじりともせず成良は、早朝から人夫達に堤を見張らせ、乙女の来るのを待ち構えた。ほどなくお告げのとおりチキリを抱いた白衣垂髪の乙女が現れ「今月は大の月な、小の月な」とたずねる乙女を捕え準備した穴に投げ込み、急いで土をかぶせてしまった。不思議にも「おつげ」のとおりであった。
こうして人柱の上に高く筑きあげられた堤はその後の雨にも崩れることなく、豊かに二百八十町歩に実りの水をたたえている。
チキリ乙女の悲哀の声は、決して村人の耳から消えることなく、ちょうど人柱として埋められた堤の一ケ所はいくらつき固めても、岩肌をにじみ出る水は絶えることがない。
さながら乙女の悲しい運命をすすり泣くように「いわざらん、こざらん」「いわなければよかった、こなければよかった」と聞こえてくると言う。
その場所は後世の人たちから「いわざらこざら」と呼ばれている。仏生山町と香川町との境の高台にある平池にまつわる物語ある。
その霊をここに祭りチキリ神社の由来となったと言う。数多い伝説の中で平池の物語は悲しく美しい。
(チキリ神社の案内板より)
ジョギングで城山のふもとを走っていた時、道端で人待ち顔のお年寄りから声をかけられた。後で分かったが彼女はデイホームの迎えを待っていた。
この辺の道を通るのは車ばかり、歩く人はめったにおらん、自転車に乗っとる人もあまり見ん、あんたのように走っとる人がいるなんて・・・から会話が始まった。
あれ見てごらん、おろか生えの大根から花が咲いとる、私より背がたこうなった、大根の花は白いはずなのに、ピンクの花が咲いとる・・・このサヤエンドウかて私よりは高いが・・・と言いながら、しばし世間話。
そのうちデイホームの車が来て彼女が乗り込み、私もまた走りはじめた。
見知らぬ老人との何でもない会話、心温められ、今日もジョギングしたおかげと感謝する。
縁とは不思議なものである。
私が2008年6月、毎年サイパンへ慰霊祭に行っていると言う岡崎さんに同行してサイパンへ行った事をブログに書いた。
想像するに東京のTさんが、「サイパン」でネット検索した時、たまたま私のブログが引っかかった。それでコメントをくれた。曰く、
小生は66歳になる遺児です。父は昭和19年7月サイパンから横須賀の海軍研究所に帰還する飛行機で戦死(と思われる)。この年になり父の勤務地サイパンに是非行ってみようと思っていますがどのような手はずで進めようかと思っています。日本遺族会に資料を取り寄せたり旅行社に問い合わせたりすることから始めようかと思います。何か方法があれば教えてください。
このコメントが縁で岡崎さんとTさんの面会が実現した。今年4月12日のことである。岡崎さんからサイパンの当時の状況をお聞きしたらしく、Tさんから報告も兼ねて私に礼状が届いた。
私のブログが取持つ縁と嬉しい気持ちになった。人の縁とは不思議なものだ。写真は岡崎さん宅前。
田村神社の起源は極めて古く、社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。(田村神社HPより)
田村神社にある七福神
布袋:唐の末期の明州に実在したといわれる仏教の僧。
子育て布袋尊
毘沙門天:元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、これが仏教の神のヴァイシュラヴァナ(多聞天)になり日本では毘沙門天と呼ばれる。
弁才天 (弁財天):七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。
寿老人:道教の神で南極星の化身の老子。
大黒天:インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。
福禄寿:道教の宋の道士または、道教の神で南極星の化身の老子である寿老人の別名または同一神とされる。
恵比寿:古くは「大漁追福」の漁業の神であり時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。
獅子頭の発祥は、第十五代応神天皇の頃中国から渡来し、奈良朝前期に伎楽面に由来すると言われています。
もともと神前に安置され礼拝されていましたが、やがてこれを操作して神穂を表現するようになり、獅子舞はその後これが変化し、祭礼の際、天下泰平と五穀豊穣を祈願して神社に奉納されるようになったものであろうと言われています。
讃岐の獅子頭は、独自の郷土色を持っており張子の手法を用い、乾漆つくりのため丈夫で、振ると耳の中の小石が鳴るので、耳鳴り獅子とも呼ばれています。全国各地でつくられているものと違って圧倒的に軽く、激しく舞い踊る讃岐の獅子舞には大変適しています。
讃岐の獅子舞の歴史は古く、室町時代初期には各地で行われており、祭りの主役である獅子舞には氏神様の奉納として今でも盛んに行われています。
田村神社 創始一千三百年記念事業
①国のはじまり
天と地がまだ分かれてなかった時、この国はまるで水に浮いた油のように、海に浮かぶクラゲのように漂っていました。
②神々のお生まれ
その中で高天原(タカマガハラ)と言う天のとても高いところに、天の中心の神【天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)】が生まれ、次に全てのものを生み出す神【高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)】、【神産巣日神(カミムスヒノカミ)】が生れました。
③国生み
さてはじめに現れた3人の神達は、最後に現れた【伊邪那岐神(伊弉諾神)イザナギノカミ】、【 伊邪那美神(伊弉冉神)イザナミノカミ】を呼び、「地上はまだ油のように漂っている。しっかりとつくり固めなさい」と言われ、天沼矛(あめのぬぼこ)と言う立派な矛を授けました。
そこで二人の神は天と地の間にかかる天浮き橋の上に立ちました。どろどろとした地上へ矛を突き下ろし、『こおろ こおろ』とかきまわしました。さっと引き上げると矛の先からしずくがぽつりぽつりと滴り落ちました。
その滴り落ちたしずくが次第に固まって、ついに島になりました。この島を「おのごろじま」と言います。
④国のはじまり
二人の神は天浮き橋からおのごろ島へ降りてみることにしました。そして周りを見渡し、ほど良いところにあめの御柱をたて、大きな宮殿を建てました。
二人の神はこの柱をぐるぐるとまわり、夫婦になる約束をしましたが、最初はうまくいきませんでした。そこで高天原の神に相談し、占いをしてもらったところ「女の方が先に声をかけたからうまくいかなかったのだ。戻って言い直しなさい」と言われ、ふたりの神は言われたとおりにやり直したところ、今度は夫婦になることができました。
こうしてふたりの神は多くの神を生み出したのです。
⑤火の神の誕生
ふたりの神は、まず日本の国の島々を生み出しました。次に家の神、海の神、風の神、山の神、食べ物の神などさまざまな神を生みました。
最後に火の神を生んだ時に、ひどいやけどをおって、とうとうイザナミはこの世を去って、黄泉の国へ旅立っていってしまいました。イザナギをはじめ生れた神達はとても悲しみました。
⑥黄泉国(ヨミノクニ)
イザナギはいとしいイザナミを追って、よみの国まで旅立ちました。出迎えたイザナミは喜んで「黄泉の国の神に、帰っても良いか相談して来ますから、その間は私の姿を見ないで下さいと言いました。
しかしイザナギは待ちくたびれて、遂にイザナミの姿を見てしまいました。そこにあったのは体中に、うじがたかり雷の神がとぐろを巻いた姿でした。イザナギはその変わり果てた姿に驚いて逃げてしまいました。
イザナミはとてもくやしがり、よもつしこめ(黄泉醜女)と言う鬼に命令をして、イザナギを追いかけさせました。イザナギは一生懸命に逃げて、よもつひらさか(黄泉比良坂)の麓までたどりつきました。
そこに生えていた桃の実を投げつけたところ、桃の力によって鬼達は逃げ帰っていきました。
⑦黄泉比良坂(よもつひらさか)の別れ
何とか鬼達を追い払ったところに、とうとうイザナミが追いかけて来ました。黄泉比良坂を登ったイザナギは、千人がかりでやっと動くような大岩を坂の真ん中に置き、その岩を間に置いたままイザナミに別れを告げました。
イザナミはとても怒って、「あなたがそのようにひどいことをするなら、あなたの国の人々を一日に千人づつ殺してあげましょう」と言いました。
これに対してイザナギは「あなたがそんな事をするのなら、私は一日に千五百の産屋を建てて子供を生ませることにしよう」と言いました。
このようなことがあったので、一日に千人の人が死に、代わりに千五百人の人が生れるのです。
⑧禊袚い(みそぎばらい)
イザナギはよみの国でけがされてしまった体を、筑紫の国の日向(ひむか)のたちばなのおどのあはぎはらで、禊袚いを行いました。
みそぎとは体に水をかけて、けがれを清める事だから、身に着けていたものを全て脱ぎ捨てました。イザナギは川にもぐり体の穢れを清めました。
左目を清めた時、天照大神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右目を清めた時つくよみのみことが生まれ、鼻を清めた時すさのおのみことが生まれました。
イザナギは大変尊い神が生まれたと喜びました。イザナギは高天原を天照大神に、夜の国をつくよみのみことに、海の世界をすさのおのみことに治めるように夫々の世界を任せました。
⑨天の岩戸
すさのおのみことは母に会いたいと泣き叫び大人になるまで、海の世界を治めようとしませんでした。それを見たイザナギは怒り、すさのおのみことを海の世界から追い出してしまいました。
すさのおのみことは姉に別れを告げに高天原へ行きました。高天原へ行ったすさのおのみことは大変な悪さをしたために、天照大伸は怒り悲しんで天の岩屋に入って、その戸を閉めてしましました。
そうしたところ、世界は暗闇に包まれ悪いことばかりが起こりました。こうしてはおけないと沢山の神達が集まり、美しい声で鳴く鳥を鳴かせてお祈りをしたり、みんなで大きな声で笑ったり踊ったりしました。天照大伸は不思議に思って天の岩戸を少し開けて様子を窺ってみました。
そこへ力持ちの神が手をかけて天の岩戸を一気に開けて、天照大伸を引き出しました。こうして世界は元通りに明るい光を取り戻しました。
⑩八俣(ヤマタ)の大蛇(オロチ)
さて、とても悪い事をしたすさのおのみことは、高天原からも追い出されて出雲の国のひのかわの上流に下りました。川沿いに上っていくと老夫婦と若い娘が泣いていました。
すさのおのみことは何故泣いているのか訊ねると、老人は「もともと私達には八人の娘がいましたが、八俣の大蛇と言う恐ろしい怪物に毎年一人づつ食べられて、今はこの娘しか残っていません。この娘も食べられてしまうのかと思うと悲しくて泣いていたのです」と言いました。
そこですさのおのみことは大蛇退治を自ら引き受けて、娘と結婚する約束をしました。
⑪八俣の大蛇退治
すさのおのみことは老夫婦に桶に入れた強いお酒を用意させました。そこへ真っ赤な目をした八俣の大蛇が、八っの頭と尻尾を振りながらすごい勢いでやって来ました。大蛇は桶を見つけるとすぐに中のお酒を飲み出しました。
飲み終わると大蛇はすっかり酔っ払って桶のそばで眠ってしまいました。それを見たすさのおのみことは大蛇を長い刀でずたずたに切り裂きました。
大蛇の中ほどの尻尾を切ったところ、刀の刃が欠けてしまいました。不思議に思ったすさのおのみことは、そこを切り開いたところ、すばらしい刀があらわれました。
とても珍しい刀だったので、これを天照大神に差し上げました。これが後に草薙と名付けられた刀です。
こうして大蛇退治を成功させたすさのおのみことは、娘と結婚して出雲の国に立派な宮殿をつくりました。
⑫因幡の素兔(シロウサギ)と大国主神(オオクニヌシノミコト)
おおくにぬしの神には沢山の兄がいました。因幡の国に美しい姫がいるとの評判で、兄達は結婚を申し込みに行くために、大きな袋をおおくにぬしに背負わせ、付き添いをさせました。
旅の途中、みさきで毛皮をむかれて赤裸になった兎が倒れていました。おおくにぬしは訳を聞くとうさぎは「私は向こうの島に住んでいる兎です。何とかこちらのみさきへ渡りたいと思い、鮫をだまして渡ろうとしたところ騙していることがばれてしまい、鮫に毛皮を剥ぎ取られてしまいました。そこへ先に通った神様達が言うとおり、塩水を浴びて風に当たって寝ていたところ、余計に痛くなってしまったのです」と言いました。
それを聞いたおおくにぬしは「川の水で体を洗い、ガマの穂綿に身をまとえば、きれいに直るだろう」とうさぎに教えてあげました。言うとおりにしたうさぎは元のきれいな体に戻り、大変喜びました。
⑬天孫降臨
天照大伸は自分の子供に地上を治めさせようと思い、いろいろと考えて孫にあたる邇邇藝能命(ににぎのみこと)を下らせました。ににぎのみことは下ろうとすると、八方に分かれた道で異様な姿をした神が行く手をふさいでいました。
そこでお供の神に訊ねさせたところ、その神は「私は猿田彦の神と申します。道案内をしようとお迎えに来ました」と言いました。
これで道案内ができ、お供の神たちも決められて、天照大神はやさかのまがたまと鏡、草薙の剣をににぎのみことに授けました。
天照大伸は「この鏡は私だと思って大事におまつりしなさい」言われ、現在もこの鏡は伊勢の神宮に、やさかのまがたまは皇居に、草薙の剣は熱田神宮にまつられ、これを三種の神器と言います。
こうしてににぎのみことは高天原を離れ、空に浮かぶ何十にも重なった雲を押し分けて、筑紫の日向のたかちほに下られ、そこに立派な宮殿を建てました。
神さまの話は面白い。
昭和63年(その7)
・故郷を見切りて い出るこの旅の
吾の心を 神や知るらん
・桃花と見粉う程に咲き盛る
紅梅の花 きさらぎの空に
・もうすぐに 弥生の月となりぬらん
長きに耐えし 野辺の千草よ
・神秘なる 山の湖 干上りて
あらわに見ゆる 底の哀れさ
・七度の転居の末に 落ち着きて
この地を終と決めしも空しく
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
昭和63年(その6)
・細長き 大根洗えば肌白く
つやめきていたり 立春の朝
・川砂の 清き流れに 住みいたり
汝はしじみ貝 今椀の中
・湖の畔芦の間に間に 白鳥の卵
い抱きし姿 やさしき
・丘の上の 白亜の館に病める
乗り来し車 はるかに並ぶ
・自らの 決意に添いて旅立たむ
七十路の身には 悲しかりけり
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
桃源郷とは、中国における理想郷を指す想像上の場所。
中国の六朝時代、東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人・陶淵明(365年 - 427年)が著した詩【桃花源記 ならびに序】が初出とか。
ある漁師が、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる場所に迷い込んだところから話しが始まる。
赤磐市山陽町の桃源郷。山の上には桃に見立てたガスタンクがデンと座る。
桜の花は一つの芽から4,5ヶの花が咲く。梅や桃は一つの芽にひとつの花。桃や梅は実を付けるからだ。
岡山は白桃で有名、でも一個の桃を世に出すには、芽間引き、花間引き、受粉、実間引き等、大変手のかかる過程を経ねばならない。
桃の花が満開で、きれいキレイと見渡す裏側には農家の壮絶な戦いが待っている。桃源郷などと浮かれてはおられない。
・便りが無いのは いい知らせ
とは言え気になる 子の安否
・ウンとかスンとか 言って来い
と送ったメールに 返事はスン
・スンの後 来たメールには 近況が
息子のジョーク 我に似たり
・母が詠む 老いの詩 目にしみて
ボソボソと食う ご飯の中へ
・人生は 思うに任せず これも又運命
トウセンと読む。
この神社には山峡有馬の里に温泉を発見したと言われる大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)が祀られている。
従って有馬の歴史は古く、道後・白浜と並び日本三古泉に数えられています。
有馬温泉が世に広く知られるようになったのは、奈良時代に僧行基が温泉寺(湯泉神社のふもとにある)を建立し、また鎌倉時代には僧仁西が十二の宿坊を建ててからと言われますが、さらに繁栄をもたらしたのが太閤秀吉。
秀吉は湯治のためたびたび有馬に足を運び、千利休らと共に盛大な茶会を催しました。江戸時代には全国でも指折りの湯治場として数多くの人々が訪れ、その名湯ゆえ日本三名湯にも数えられるなど有馬千軒といわれるほどの賑わいをみせました。
子宝が授かる神様としても知られており、温泉の守護神として【温泉守護神】とも呼ばれる。
昭和63年(その5)
・家族より はみ出せし 吾の明け暮れは
時に耐え難き 悲しみを持つ
・「長生きは恥多しとも」云う如く
忍び難きを耐える時あり
・たのしみは 椿のつぼみ 次々に
開く過程を 日毎見る事
・夫逝きて 二十五年の歳月を経し
今にして 夢にい出くる
・朝食の味噌汁に浮く大根は
吾の間引きをのがれしものなり
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
協和発酵のシトルリンを飲んでいた。毎月2袋180粒届く。一日6粒だが飲み忘れたり、他のサプルメントも服用中のため、未開封の袋が溜まっていく。
こりゃたまらんと2ヶ月毎の配達に変えた。
それでも溜まるから3ヶ月毎に変更してくれと言ったら、それは出来ないと言う。仕方がないから購入中止とした。
そこで思った、購入をやめるとは言ってない、3ヶ月毎でも買うと言っているのに何故対応しないのかと。
そんな話を娘にしたら、2ヶ月毎までは会社の販売システムに乗るが、3ヶ月毎はシステムに乗らないから人手処理となるんじゃない、そしたらそのコストが発生して売れても損をするんじゃないの・・・と言われた。
なるほど、そこまでは考えが及ばなかった。
3ヶ月でも顧客を失うよりはいいだろうに・・・やっぱり大手はきめ細かな対応はできないんだと勝手に思い込んで怒っていたが、人の意見はとかく聞いてみるもんだ。
「第8回瀬戸大橋のまち・坂出 讃岐うどんつるつるツーデーウオーク」が4月3日,4日に開催された。35Km,20Km,10Kmの3コース。
昨年も20Kmにエントリーしたが、チェックポイントの府中小学校へ着く頃から雨が降り出し、残り7Kmは雨中ウォークだった。くらべてこの日は快晴、桜も満開で絶好の歩き日和になった。
一番遠くから来た人は?とゼッケンの県名を見ながら歩く。神奈川県を見つけた。さすが北海道はいないだろうとワイワイ言いながら歩いていると、いました目の前に。「北海道からようこそ」と声をかけた。札幌から来たと言う。神戸まで飛行機で、そこから淡路島経由のバスで。
後で参加者名簿を見ると北は北海道から8人、南は熊本から6人、昨今のウォーキングブームを反映して1,000人強の参加者でした。
スタート地点(JR坂出駅北側)の風景
兵庫県から参加のゴールデン・レトリバー2頭。ウォーカーの注目の的でした。
出発前に入口さんの柔軟体操指導。さぬき弁丸出しの語り口に笑いでも体をほぐす。
新川尻橋を渡る。
綾川沿いを遡る。
国宝 神谷(カンダニ)神社 通過
府中小学校への桜並木
府中小学校であめ湯のお接待。ここまで来るとアト少し、一息入れる。
鼓岡(ツツミガオカ)神社 通過
白峰宮へ
八十八(ヤソバ)名物ところてん。八十蘇場の清水で作るところてんは美味い。特に暑い夏は。
8時50分出発、12時35分到着。20Kmを約3時間45分で走破、時速約5.3Km、やれやれ、、ご苦労さまでした。
昭和63年(その2)
・冬萠の 浅瀬に立つは さぎ一羽
真白きあたり 首かしげつつ
・ささやかな 額の年金 給付あり
老いの吾には 有難かりき
・来たる日も 又来る日も 風強く
泰山木の 秀いたく騒ぎぬ
・夕映えに 浮き出され居る 大いなる
ビルの群像 際だたせて黒し
・空高く 飛べる鳥影 強風に
瞬時とどまる如く見ゆるも
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
昭和63年(その1)
■ かいづかを 伐りて南天 すがすがし
■ しぐれ降る 寒の最中も 薮椿
早も咲き出づ 紅の鮮やか
■ 鏡台に 朝日の差して 吾顔の
明るさに写る 七十路のしわ
■ 橋脚は 将棋の駒の 並ぶごと
遠くはるけき 対岸に霞む
■ 冬萠の 湖に立つさぎの 寒からん
尾羽打からし 首をちぢめし
前田 百花 本名 前田 ゆり子
1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。
1993年4月6日没
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