ちきり神社
所在地:高松市仏生山町甲2566
祭神:稚日女尊
寛文九年(1669年)、高松藩主 松平頼重は雄山(オヤマ)にあった神社を東の雌山に遷宮して、下浅野・百相村(モマイムラ)の産土神とした。
社地である雌山(ちきり山)はまぐさ山とも言う。山の麓を含めまぐさの入会地であったと思われる。
また法然寺の門前に位置したので、前山とも言われる。「ちきり」は織機の一部で経糸巻である。
祭神の稚日女命(ワカヒルメノミコト)が日本神話に出てくる機織女であるところから、平池築造にまつわる人柱伝説も生れた。
悲しく美しい人柱
およそ八百年の昔、治承二年、村人達は深い憂いに沈んでいた。と言うのは平池の堤は幾度築いても雨が降るたび崩れ、田畑は水に流されて、普請奉行 阿波の民部田口成良も難工事にホトホトもてあましていた。
今日も京の都からは平清盛の厳命が届いたばかり。その晩疲れ果てて眠りもやらぬ成良の枕辺に、白衣垂髪の女神が現れ不思議なお告げを残して姿を消した。
「明日の牛の刻、白衣垂髪の乙女がチキリを持って通るであろう。その乙女を人柱として堤に埋めれば、工事はきっと成就する」と言うのであった。
まんじりともせず成良は、早朝から人夫達に堤を見張らせ、乙女の来るのを待ち構えた。ほどなくお告げのとおりチキリを抱いた白衣垂髪の乙女が現れ「今月は大の月な、小の月な」とたずねる乙女を捕え準備した穴に投げ込み、急いで土をかぶせてしまった。不思議にも「おつげ」のとおりであった。
こうして人柱の上に高く筑きあげられた堤はその後の雨にも崩れることなく、豊かに二百八十町歩に実りの水をたたえている。
チキリ乙女の悲哀の声は、決して村人の耳から消えることなく、ちょうど人柱として埋められた堤の一ケ所はいくらつき固めても、岩肌をにじみ出る水は絶えることがない。
さながら乙女の悲しい運命をすすり泣くように「いわざらん、こざらん」「いわなければよかった、こなければよかった」と聞こえてくると言う。
その場所は後世の人たちから「いわざらこざら」と呼ばれている。仏生山町と香川町との境の高台にある平池にまつわる物語ある。
その霊をここに祭りチキリ神社の由来となったと言う。数多い伝説の中で平池の物語は悲しく美しい。
(チキリ神社の案内板より)
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