Jou光

  • 親父
    彼は子供の時から絵が上手いと、親の欲目で思っている。目の前でさらさら描かれると、ついつい感嘆してしまう。世の中いっぱい絵の上手い人はいるが、この道で飯が食えるのはスポーツ選手と同じで極一部。でもとにかく趣味でも良いから絵を描くことは続けて欲しいと願っている。

春爛漫

  • ぼけの花
    柿茶の里は徳島県美馬郡つるぎ町に位置する。柿の葉の生産農家へ毎年春と秋に行く。春はことさら美しい。桜が咲き乱れ山の木々が新緑に包まれる。澄んだ青空に身も心も洗われる気がする。

アユタヤ遺跡

  • Pict0266
    1491年に建てられた王族の守護寺院。3つの大きな仏塔には、ラーマティボディ2世と父、兄の遺骨が納められています。 寺院ではありますが僧は居住せず、王の礼拝堂として王族の儀式に使用されていました。この寺院もまた、1767年ビルマ軍により破壊され、16mあったという金で覆われた仏像も金を奪われた後、壊されてしまいました。

暁の寺院 タイ

  • Pict0350
    トンブリ王朝時代の守護寺で最高位の寺院とか。きらきらと輝く陶器の破片に覆われた高さ約79mの大仏塔は、ラマ3世により5年がかりで改装された。朝日を浴びた大仏塔の神々しい姿が”暁の寺”の名前の由来。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

  • Pict0201
    セイロンへの留学から戻ってきた僧侶のために、1357年初代王ウー・トーンが建立しました。仏教寺院は瞑想の場として使用されていました。現在も多くの仏教徒が訪れ、週末は観光客でにぎわいます。

水上マーケット

  • Pict0116
    ダムナン・サダックの水上マーケット。その昔、”東洋のベニス”と言われたバンコクでは、日常的商取引には運河が利用されてきた。水上マーケットは、古き良き時代の情緒溢れるバンコクの生活を体感させてくれる。 

2008年7月 タイ王宮

  • Pict0429
    白壁に囲まれた20万㎡の敷地内には、1782年に建設された国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などチャクリー王朝歴代の王により建造・改築された建物が建ち並んでおり、ラマ8世までは実際にここに住まわてていたとか。

涅槃寺

  • Pict0386
    タイ語で Wat Pho(ワット・ポー)と呼ぶこの寺は、ラマ1世が建立したバンコク最大の境内を持ち、バンコク最古の歴史を持つ寺院。本堂には写真のようなリクライニング・ブッダの愛称で親しまれている寝釈迦仏が横たわる。足の裏には螺細細工でバラモン教における108の宇宙観が表現されていると言う。

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金魚

  • 金魚

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2010年7月

どくだみ

今年もドクダミ茶を作りました。去年は葉っぱを丁寧に洗った。

お茶は煮出すから殺菌されるだろうと、今年は手抜き。おかげで手間もかからず好天にも恵まれて売るほどできた。

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なす

今年もなすの苗を買ってきて植えた。やわらかくて水水しいナスを育てるのは難しい。毎日たっぷり水をやっているのに固い。予防もしないから虫も食う。

よその畑のなすは丸々と育つのに何故うちのは?土が悪いのかな~。

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秋川雅史コンサート

7月17日、ユープラザうたづに「千の風になって」で一躍有名になった秋川氏がやってきた。毎年各地でコンサートを開いている。

今年のツアーメニューは、ロリータ・愛燦々・熱き心に・愛のメモリー・遠くへ行きたい・君に告げてよ・浜辺の歌・乾杯・グラナダ・千の風になっての10曲。

テノールの透き通るような声量で観客を魅了し、曲と曲の間にトークが入り、それも面白くて約2時間はあっという間に過ぎた。

近藤亜紀さんのピアノ演奏がこれまた素晴らしく、生の舞台の迫力を思い知らされたコンサートだった。

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選び取り

時の流れは早く、初孫も一歳になった。誕生祝いをするからと招待される。

一歳の誕生日に【選び取り】と言う行事をする風習を初めて知った。元々は中国の占いが伝わったもので、子供の前にいろいろな物を置いて、どれを選ぶかで将来を占うらしい。

例えば、そろばんは商売、本や筆は学者とか文筆家で置く物は何でもいい。孫の場合はそろばんと筆と絵本と一万円札。

それを大形のどじょうすくいザルに、手前に算盤、筆、絵本その奥に一万円札を置いて並べた。

さてどれを一番に取るか興味津々、家族が見守る中、母親の「こっちコッチ」の声に誘われてザルに向かってハイハイ開始。

一番先に取ったのは、絵本や筆を踏みつけて一番奥の一万円札。彼女は満面な笑みを浮かべて得意そうに福沢諭吉を振った。

この子は一生お金に困らない・・・そんな思いが家族みんなを和ませた。

一升のもち米でついた一升餅、重さ約2Kg、風呂敷でその餅を包み孫に背負わせる。人の一生とお米の一升とを掛詞にして、一生食うには困らぬようにと願う。

さすがに一歳の子供には重すぎた、背負わせてから泣きっぱなし。でもまあこれで食いはぐれる事はない。

素敵な誕生を祝った一日だった。 

健やかな成長を願ってやまない。

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サイパン国際空港

サイパン国際空港の出国ロビーに太平洋戦争に関する記述が並べてある。ご紹介する。

飛行場以前の「アスリート村」

サイパン国際空港の位置は80年以上前には「アスリート」と呼ばれる日本人のサトウキビ農場区の1つでした。

1920年代初め、日本人企業がサイパン島で最初のサトウキビ栽培をこの地で着手して以来、次第にアスリート村が形成されるようになりました。

日本海軍のサイパン占領(1914)

第一次世界大戦勃発から2か月後の1914年(大正3年)10月、日英同盟に基づき参戦した日本海軍はサイパン島を含むミクロネシアの主要島(米領グアムを除く)を無血占領し、ドイツによる15年間の植民地支配に終止符を打ちました。第一次世界大戦参戦は軍事的価値を持つこれら太平洋諸島を日本の制海権に収める絶好の機会でもあったとも言えます。

1919年(大正8年)、マリアナ(グアムを除く)、カロリン、マーシャルの各諸島からなる旧ドイツ領南洋諸島は新しく結成された国際連盟の監視の下で日本を受任国とするC式委任統治領「南洋群島」となりました。

日本は「委任統治条項」に基づき「日本帝国の構成部分として」南洋諸島を統治しましたが、この地域に陸海軍根拠地や築城を建設することは禁じられていました。

南洋庁と南洋興発株式会社

1922年(大正11年)、海軍軍政を引継いだ文官制の南洋庁(パラオ)はサイパンに支庁を設置してマリアナ諸島の行政中心地としました。その行政援助の下に南洋興発株式会社は日本人移民による集約的サトウキビ農業に着手しました。

南洋興発株式会社は1920年代初め、当時の台湾の新高製糖の常務取締役であった松江春次が創設した製糖会社で、サイパン島およびテニアン島において特に沖縄出身の何千人もの移民を労働力として開墾、サトウキビ栽培から砂糖の精製に至るまでの大規模な製糖事業を起こし大成功を収めました。

「第一農場アスリート」

サイパン島の開墾は広大な平坦地があり、また地質も肥沃な島南部から着手され、アスリートをはじめオビージャン、アギーガン、ナフタンを含めこの一帯は南洋興発の「第一農場」と呼ばれていました。1930年代後半までにアスリートには学校、駐在所、商店などが建ち並び、約600人の日本人農業従事者が住む小さな隣組的社会が誕生しました。サイパンでは他にトトラム、チャチャ、タロフォフォ、バナデル地区に合計5か所のサトウキビ農場が開拓されましたが、アスリートはこのうち最も規模の大きな農場区でした。

島の各地の農場から原材料のサトウキビがチャランカノの製糖工場に軽便鉄道で運ばれ、精製された砂糖やその副産物である酒精(アルコール)は日本に移出されました。

しかし日本の国際関係の急速な悪化に伴いアスリートのサトウキビ畑は次第に変貌して行きました。

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アスリートと「昭和8年海軍特別大演習」

1930年代初めより、満州における日本軍の軍事行動に関して日米外交の緊張関係が一層高まり、太平洋の両軍事大国間の「戦争」の可能性が囁かれるようになりました。日本海軍は日本本土に接近する米太平洋艦隊の動きを監視するため南北に伸びる哨戒線の防衛強化に乗り出しました。

天皇陛下と海軍特別大演習

1932年(昭和7年)、日本海軍は翌年に小笠原諸島およびマリアナ海域を含む広大な海域で実施を計画していた海軍特別大演習の準備を開始しました。これまでも特別大演習は実施されたもののわずか数週間であったのに対し、「昭和8年の特別大演習」は86日間の長期間に及び、優秀な艦隊司令官に率いられた180隻以上もの艦船と数十の飛行機を動員した未曾有の規模の大演習でした。日本の国際連盟脱退後の国際的孤立に伴う国家の緊急事態に即応して実施された戦争準備の一つであったことは明らかです。

この演習に関しさらに特筆すべきことは、天皇陛下が御召艦「比叡」で初めてマリアナ諸島海域の大演習を統裁されたほか、軍令部長伏見宮博恭王ほか皇室出身の軍人が多数参加したことです。

アト略

高取神社

高取神社

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高取神社奥の宮

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高取山と神撫山の由来・・・「ながたの民話」(長田区役所発行)

ずっと昔、ものすごい洪水があって、長田や須磨のあたりでは、山の頂近くまでがことごとく水に没したことがあった。ようやく水がひいたあと、人々が高取山の頂に登ってみると、山の上の大きな松の木に、たくさんの蛸が八本の足をからませていた。

その話を聞いたふもとの人々は、息をはずませて山に登り、松の木から蛸を取って帰った。人々はこの時から、その山を「タコ取り山」と呼ぶようになった。それが後に高取山と書くようになったそうである。また高取山は江戸時代まで神撫山と呼ばれていた。

長田に上陸した神功皇后は、そばにあった大きな石を席にして座り、憩われた時、皇后がかたわらの大きな石を撫でられたあと、その石は急にむくむくと大きな岩になり、ついには高い山になった。神功皇后が撫でて出来たので、この山は神撫山と名付けられたのだという。

なお「高取神社由緒略誌」(高取神社発行)によると、高取山は古代の神奈備の神地(神祭り場)であり、後世には鷹ノ巣が多く鷹を取った、と伝えられています。

長田区役所

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東山昔話

六甲山のひとつ【東山】の昔話

眼下に港の見える景勝の東山はさしたる名山でもないが、山には山にまつわる昔話の尽きるものではない、そもそも東山とは明治初年の新名称、昔々は横尾山に続いていて今の様な別山ではなかったんじゃそうな、

その頃摂津の山々は天狗が支配し、鷹取山天狗と横尾山天狗とは縄張り争いで仲が悪く、遂に綱引きをしてけりを着けようと二つの山の間に張り渡した綱を引き合ったが、酒を飲みすぎた横尾山天狗が敗れそうになり、岩に足を掛けて踏ん張った弾みに山が千切れ、片足を掛けた尽で今の場所に引き寄せられて出来たのが東山となったそうな。

やがて両天狗とも仲直りして、行ったり来たりする内に年を取り過ぎ、一本歯の下駄で山から山を一と飛びで渡るのは疲れるので途中の東山に腰を下ろし、一服吸う様になり煙草の煙が立ち始めると下界が煙って見えなくなるので、村人がいつとはなしに天狗山とか一服山と呼ぶようになったそうな、

やがて世は明治に移り、ある晩、村の衆がお寺に集まり、あの天狗山話は、嘘か誠か夜通し詮議し合ったが、何分天狗を見たという大昔の人が生きていないので埒があかず一同困り果てた。

若い衆は「この文明開化の世に天狗山なんて俺アの村の恥、肩身が狭い」と改名を迫り、親達も「今の時代に天狗山では嫁に来てがネエ」と嘆く始末、いや今改名すれば「御先祖様に申し訳無い 俺ア腹を切らねば」と仏様に手を合わして泣くやらてんやわんやの末、和尚さんが「皆の衆やこの山は横尾山の東に在るでこれからは東山と呼ぼう、仏様も喜ばっしゃるぜ」となだめすかし、一同それが良かろうと手を打ったと言うのが改名異聞じゃそうな、その後で村人は帰ろうとする貧乏百姓の権助を無理に引き留め「のう権助や、天狗は今でもいるぜ、これからはあの山で煙草を吸うでねエど、天狗がお前の顔に似とるで間違われるけん」とからかった、

人の良い権助は聞いたか聞かないのか、爽やかな目をして夜来の雨にすっかり浄められ、折からほんのり淡い月影の浮かぶ美しい天狗山に向かって静かにつぶやいた「あの山には天狗様は必ず御座る、村の衆の目には見えんだけじゃ」やがて月が落ち下界が暗闇になれば峰々を伝う天狗達の高笑い声も俺アの耳には聞こえて来るに違いねエ。

遠き世の 方在しますや 山の辺に 月落ちぬれば 声も聞こゆらし

この歌も至って罪の無い権助と天狗にまつわるささやかな村の夜話じゃそうな、本当やろか。

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春日神社・荒熊神社

ここは日々仰ぐ神の山 神霊こもる高取山

荒熊神社

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春日神社

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汗をかいて尽くします

参議院選が終わった。香川選挙区は自民党の磯崎氏が当選。このポスターのように、しっかり汗をかいて国政に携わって欲しい。

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雨の日のポスターは水滴が汗に見えて、何かこの人頑張っているような気がする・・・気のせい?

つる

葉の色がひとつひとつ微妙に違うのが気に入って買ってきた。名前は知らない。

出窓に置いていたら次々つるが伸びて、今はもうずい分背も高くなった。

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睡蓮

園芸店で買って来ては味噌ガメに植える睡蓮、たいていは一年でダメになる。

植木鉢をそのまま瓶に沈めるやり方を変えて、去年は瓶に直接土を入れて植えてみた。これが良かったのか今年は枯れずに葉が出て花も咲いた。ひとつ咲いては枯れ、また咲いては枯れ、一度に二つ以上の花を見たことがない。今年はこれで3ヶ目の花。

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絵手紙に描いてみた。

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板宿八幡神社

御祭神:譽田別尊・菅原道真公・大日霊女命

由緒:当神社は菅原道真公 九州遷御の砌 御宿泊の跡を保存するため永延元年一月武神八幡大神と菅公を鎮守神として創祀され明治四十年には現在の明神町に鎮座せし池ノ宮鳴滝明神が合祀されている。

又飛松・板宿等の名称は菅公左遷の際、板で囲った簡単な宿泊所を設けたこと 更に菅公を慕ってこの地まで飛んできた松から其の地名が由来するもので松の巨木は大正年間に枯死せしもその切株は菅神の飛松として境内の飛松社に奉斎されています。

太宰府の飛梅と並んで菅神の飛松として慕われています。厄除の神 板宿の厄神さん・学問の神飛松天神さん、産業商業の神 池ノ宮明神さんとして広く崇敬されています。

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飛松天神由緒

御祭神:菅原 道真公

御社殿建立:昭和54年3月

御祭神菅原道真公は承知十二年(845年)六月二十五日に、京都の菅原院に誕生 延喜三年(903年)二月二十五日梅香の太宰府にその清廉潔白至誠尽忠の生涯をとじられた。

昌泰四年(901)藤原時平の陰謀で都を追われて九州太宰府に左遷され その途中この地に立ちより板かこいの宿をしつらへ、一夜の宿をとられたことからこの地を板宿と呼ばれている。

道真公は都にいる頃、樹木を愛し特に松・梅・桜の木を育てていたが道真公失脚した時、桜は朽ち果て 梅は花の香りを東風にのせ西に旅する道真に絶えず芳香をとどけたという。松だけは知らぬ顔。 板宿に着いた道真公はふとため息交じりに梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」とつぶやかれた。

伝え聞いた松は空を飛び京からこの地に飛来す。その松の大木も大正年間落雷等で枯死せしも、株だけはこの御社に保存し祀られている。

依て学問の神 飛松天神として広く崇敬されている。

たぬき

六甲山縦走コースで見つけた狸の置物。

縁起物として「他を抜く」にしゃれて商売繁盛を願うものだが、この狸 痩せて疲れ果てた表情をしている。実に悲しそう。

この家は繫栄しているのだろうか?と人ごとながら心配。

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證誠(しょうせい)神社

JR長田駅で降り山側へ向かう。六甲山縦走コースへ板宿からアクセスする。途中で見つけた神社。

御祭神:五十猛命(いそたけるのみこと)

由緒:

永延元年九月(西暦987年)第六十六代一条天皇の御代・須磨の浦の真南にあたる紀州熊野の大神を勧請し妙法寺川沿岸の大手・東須磨・野田・駒ヶ林の五ヶ村の氏神として創祀される。

寿永元年(西暦1182年)須磨の地に御遷都せられ、徳川の代に須磨聖霊大権現と称せられた。

明治初年證誠神社と改め、明治十四年七月郷社(須磨区唯一の神社)となり、須磨地域一円の守護神としてその御神徳を崇敬せられ現在に至る。

当神社の祭日には必ず少し雨が降るため「しょぼしょぼ権現降る長田 生田は降らぬことなし」と今もなお言いならわされている神戸市内屈指の古寺である。

御神徳:

御祭神 五十猛命は素盞雄命の御子様神にして植林・植樹の祖神に座して、国中の風水被害を植林及植樹により守護し、農・工・商業を繫栄せしめたる大神として尊崇され、又一説には大国主命が兄命達の迫害により森林深き木の国(紀伊の国)にのがれ、難をさけたと厄除けの神としても崇敬されている。

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あやめ

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高幢(こうどう)神社

国道11号線沿いにある神社。毎週木曜日に県立丸亀競技場のジムへ行くたび、この神社の横を通る。どんな神社か気になっていた。

祭神:

息長帯目賣命(おきながたらしひめのみこと)・武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)・表筒男命(おもてつつおのみこと)・中筒男命(なかつつおのみこと)・底筒男命(そこつつおのみこと)

由緒:

貞観年間の創祀という 社伝によれば 貞観年間多度の人 正六位上左少史讃岐朝臣時雄 住吉大神を迎え祀りて高幢大明神と称す。その後荒廃して原野に御霊石の円き石相残れり。

西行法師巡錫の途 この地に来り 御霊石の円石を見て里人に尋ぬるに 住吉四社を祀り高幢大明神と称する由 と答ふ。西行 即ちこの神は本朝和歌の大祖子安の神なり とて社辺に小松三本を植えて奉る。

後年大木となり西行三本松の称ありといへり。今は枯損じて僅かに五尺余りの古木二株を残せり。

安永二年国司 中納言藤原家成再建あり 家成の後裔 福崎宗賢社殿を造営せりと云う(古今名勝図絵 仲多度郡史神社考)

※貞観は中国唐の時代(627年~645年)飛鳥時代

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この神社の狛犬、神様の方を向いている。普通は鳥居の方を向いているのに、誰かが回したの?

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西行三本松

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  西行三本松の由緒

今より八百余年以前西行法師が全国行脚の契り 讃岐の国白峯宮に崇徳院を弔った折 那阿郡善通寺への参拝の道すがら柞原の里に立ち寄られたところ 余りにも荒れ果てた原野に円い石があり 村人に尋ねた処 昔この地は住吉大神をお祀してあった所と答えた

西行法師はこの石はDsc01829 本朝和歌の太祖であると申され社辺に小松三本を植えられ行脚の旅に出られた

後年この松は大木となり村人は西行三本松と云い伝えた この松は江戸時代 皆枯れ果てて二メートル余りの二株が残ったため祭壇にお祀りして今日に至る(仲多度郡史より)

うどんはノドゴシ

丸亀のさぬきうどん「麺屋」で見つけたポスター。「福祉・介護の仕事サポートフェア」説明会への参加を呼びかける内容。

香川県ならではの文言【うどんはノドゴシ 仕事はカイゴシ】がおもしろい。

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百花詩集 20

昭和63年(その11)

・日脚伸ぶ 春の入日にぽっかりと 

 開きし木蓮 只真白なり

・裸木の枝に垂れいるみの虫も

 春寒むなれど動く気配す

・飼犬の 散歩促す吠声に

 ハイハイと答う孫のやさしさ

・冬枯れの 土堤に咲き出づタンポポの

 黄の花目立ちて 春たけにけり

・柔らかき かえでの新芽開き初む

 吹く風いまだ冷たき日々を

前田 百花 本名 前田 ゆり子

  1914年12月2日 香川県坂出市生まれ。

  1993年4月6日没

びわ

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トロピカルフラワー

サイパンのトロピカルフラワー

ねこのしっぽ

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フレームツリー【マメ科】、サイパンの国樹。日本統治時代のなごりで南洋桜とも言われる。マダガスカル原産の落葉性高木で、学名はホウオウボク。3~8月に真っ赤に燃える炎のような花を咲かせるため、火炎樹とも呼ばれる。

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マメ科とあって、その小さな可愛い花の割に種は異常に大きい。種のサヤをブーメラン替わりに飛ばすと言うが本当かな?

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プルメリア【キョウチクトウ科】、北マリアナ連邦の国花。西インド諸島原産で、レイやブーケなどに使われるおなじみの花。花期が長く香りも良い。茎や葉の乳汁は有毒でさわらないほうが良い。

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ブーゲンビリア【オシロイバナ科】、ブラジル原産のつる性花木。グアムの州花にもなっていて、赤紫・ピンク・オレンジなど花色は多彩。花びらに見える部分は葉の変化したもの。

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アメリカンメモリアルパークで見つけた花 

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サイパン墓事情

6月14日、朝散歩から戻って時計を見た。ジャングルツアーの車が迎えに来るまで、まだ十分な時間がある。何をしようか?と井上君と相談。自転車を借りてサイクリングに出かけることに。1台1日10$なり。ホテルのフロントでレンタル場所を聞く。

フィリピン海側のビーチロードを北に走る。途中でお墓を見つけた。外国で良く見る故人の名前を書いた石板が広い芝生に並んでいる光景とは違う。

土地が広いせいかお墓も大きい。屋根があって、故人の写真や思い出品も飾ってあり・・・そうだ日本の仏壇の屋外版だ。これも文化の違い。

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ついでにサイパン島とテニアン島の地図。

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谷間での死

タポチョ山頂にある戦争の碑

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1944年6月、この山の頂上のすぐ下に見える高原は米軍兵士と海兵隊により「死の谷」と呼ばれていた。

下にあるサトウキビ畑よりこの山頂に向かい移動していた部隊は、左右両方から放たれる破壊的十字砲火により撃ち伏せられた。

絶壁にある洞窟に潜伏する日本軍によって撃たれる機関銃、スナイパーや深い南国の藪が米軍の前進を遅らせ、さらに多大な損害を招かせた。

米軍の死傷者の数が何百人にも膨れ上がるにつれ、日本軍が丘の側面から攻撃している谷間は「パープル・ハート・リッジ」または「地獄の谷間」と呼ばれるようになった。

1944年6月30日、タッポーチョ山が米軍によって攻略された5日後、死の谷は一掃された。

「1日中前進を試みたけど、日本軍の機関銃やスナイパーに阻まれ不成功に終わってしまった。サイパン戦は、終わりなき生き地獄のようなものだった。僕の小隊で何人兵士が生き残ったか数えることもできなかった。 フランク・ボルタ偵察隊使者」

ジャングル戦続く

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侵略が始まって25日目、米軍指揮官は、サイパン島占領を宣言した。戦闘が終わる最後の数日間、何千名にも及ぶ日本兵が天皇陛下に敬意を捧げ、壮絶な総攻撃「玉砕」のもと命を絶った。

日本兵の中には、この頂上の下にある密林で覆われた丘や洞窟など奥深い処にまで戦闘を持ち込み戦い続けた。大場栄大尉率いる1団体は、米占領軍に対しさらに17ヶ月間に及ぶゲリラ戦を続け、米軍による捕獲を逃げぬいた。

「私は諸君と任務についたことを誇りに思う。武士道の精神に基づき諸君は良く戦った。今日、天皇陛下の御命令により我々は戦闘を終える。しかし、我々は不敗の日本兵としてこの戦いを終えるのである。大場栄大尉」

タッポーチョ山攻略

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1944年6月25日、第8海兵連隊の小隊が現在地からすぐ下にある険しい傾斜をよじ登りタッポーチョ山頂上をとうとう攻略したのである。日本軍守備隊は、山のふもと近くで激しい戦闘をまじえており、海兵隊が山頂についた時には誰もそこにいなかった。

現在地の頂上下にあるチャランカノア付近の米軍侵略海岸からタッポーチョ山頂上にたどりつくまで米海兵隊は、日本軍と10日間に及ぶ残虐で困難な戦闘を交えたのである。

この高地を確保することは日本軍、後には米軍にとって強力な軍事的優位性を意味した。その地点から軍の動きを監視でき、サイパン島全域での砲撃を指示することができた。

「今日僕は、タッポーチョ山にある一番高く険しい岩石の上で3時間過ごした。この頂上を攻略したのはどんな人たちなのか見てみたかったのだ。そして僕は、大胆不敵で勇気のある粘り強い海兵隊攻撃隊員に会った。 マック・ジョンソン 民間従軍記者」

すばやい進行

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サイパン島の陸・海共同襲撃を計画した米軍指揮官達は1944年、この島で一番重要な場所は下に見える平野に位置する空港だということを決して忘れなかった。

1944年6月15日午前8時43分、8,000名の米海兵隊第2と第4師団が、下にある海岸を攻撃した。32時間後、何千名にも及ぶ第27陸軍師団歩兵員たちが海岸に上陸中の海兵隊に続いた。

米軍の戦闘命令は空港を確保し、高地を占領した後、日本軍を北方に追いやり島を横切りどんどん進行していくことであった。

「私はいつもサイパン島は太平洋戦において決戦の場となり、それゆえ日本の絶対国防圏を崩壊し本土上陸への道を開けたと考えていた。 ホーランド・スミス海兵中将」

侵略準備

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1944年の春、日本軍指揮官達は、下に見える多くのサイパン島の海岸を研究していた。

彼らは、米侵略軍がもうすぐ島に上陸することを確信していた。日本軍の最終防衛準備は主な場所に兵力を集中させ、すばやく移動することであった。

日本軍守備隊は、西方のフィリピン海を巡視中の日本軍第1移動艦隊が反撃援護に来るまで、米軍を拘束する計画を立てた。この山の上に配備された弾着観測者は、海岸に上陸する米軍たちを撃退するため大砲射撃を指示することができた。

40,000名以上の日本兵が、この島を防御するため命を落とした。

「もしサイパン島が陥落すれば東京は米軍によるB29爆撃機の空襲をたびたび受けることになるので、是か非でもサイパン島を守る必要がある。 昭和天皇」

戦争の残骸

サイパンには第二次世界大戦の残骸が数多く風雨に曝されている。

その代表が日本軍の戦車。ビーチロード脇に寂しく眠る。

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碑に曰く、

「レッドビーチでの夜襲」

6月16日の夜、我々は大規模な夜襲を決行した。1つの連隊は敵の前線の1部 を突破し後方にまで進入したが多大な死者を出してしまった。 島村大佐

戦闘は騒音、曳痕弾と閃光が伴う混乱の場と展開していった。戦車が攻撃され火がつけたれた時、その火で明滅する影の中から出てくる他の戦車の陰を映した。 ジェームス・ドノバン少佐

この近くで約1,000名の日本軍歩兵員が、レッドビーチを占拠する海兵隊に対し44台の戦車と共に強力な反撃を行ったのである。これは太平洋戦争において最初の大規模な戦車による戦闘であった。

次の日の夜明け、海兵隊は31台の戦車が戦場で延焼しているのを数えた。米第二海兵師団は、この2日間による上陸拠点での戦闘で3,500名の負傷者を出した。

トーチカをご存知だろうか。トーチカとはロシア語で鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語。

このトーチカがサイパンでは至る所に残る。トーチカの中では戦没者の霊達が戦争の悲惨さを語り合っているのではないだろうか。

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サイパンジャングルアドベンチャー

サイパンの面積は185km²、小豆島と同じくらいで人口約 58,000人。統治国がスペイン、ドイツ、日本と変り、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国の自治領である。

民族構成はフィリピン人、中国人、チャモロ人の3人種で公用語は英語とチャモロ語。フィリピン系の英語はタガログ語なまりが強く、輪をかけて理解しずらい。

テニアン島へは前回行ったから、今回は【ジャングルアドベンチャー】なる仰々しい名前のオプショナルツアーを申し込んだ。大人一人45$とまあまあ安い部類のツアー。

参加は井上君と私の2人だけ、10人乗りの4WDを駆けらせるには、少々気が引けるツアーだ。

運転手兼ガイドが片言の日本語を交えて案内してくれる。ジャングルツアーとて、舗装のない凸凹道を走るから、車がしょっちゅう飛び跳ね、これじゃ「Jungle」じゃなく「Jumping」ツアーだと笑わせてくれる。

最初に向かったのは島で一番高い山・タポチョ山、一番高いと言っても標高わずか476m。丸亀市の飯野山(422m)とどっこいそっこい。

山頂にキリストの像がそびえる。真っ白な像が真っ青な空に映えて神々しい。

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左は井上君と、右はガイドさん。愉快なおじさん、老けて見えるが年は50歳とまだまだ若い。

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次に案内してくれたのは「禁断の島」、野生生物と海の保護区域でサイパンで最も美しいと評される。

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次はジャングルファーム、車が止まった先はとてもジャングルとは思えないフルーツ農園。接待してくれたのは、5年前に何を思ってサイパンまで来たのかと勝手にいぶかるネパールの男。割と親切にモンキーバナナやらマンゴージュースやらココナッツをご馳走してくれた。

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ツアー料金に含まれていると知りながら5$のチップを渡す。

次は一番小さい教会、SAN PEDRO CHAPEL

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チャペルの前に修道士の像が・・・何故かニワトリと一緒に立っている。長い年月を経た証拠に衣装から生命力豊かな木々が芽吹く。

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次はラダービーチ、浜辺へ降りる階段があるから【ラダービーチ】、何とも味のない命名である。

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岬の格好が目が出た恐竜か怪獣に似ている、名前dが思い出せない。何だったかな~

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ラウラウビーチは横を通過しただけ、コーラル(珊瑚)の美しいビーチと言う。

これでツアー終了、何がジャングル???だ。でも楽しい一日だった。

息子達へ

サニーレタス

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人参

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