サイパン国際空港
サイパン国際空港の出国ロビーに太平洋戦争に関する記述が並べてある。ご紹介する。
飛行場以前の「アスリート村」
サイパン国際空港の位置は80年以上前には「アスリート」と呼ばれる日本人のサトウキビ農場区の1つでした。
1920年代初め、日本人企業がサイパン島で最初のサトウキビ栽培をこの地で着手して以来、次第にアスリート村が形成されるようになりました。
日本海軍のサイパン占領(1914)
第一次世界大戦勃発から2か月後の1914年(大正3年)10月、日英同盟に基づき参戦した日本海軍はサイパン島を含むミクロネシアの主要島(米領グアムを除く)を無血占領し、ドイツによる15年間の植民地支配に終止符を打ちました。第一次世界大戦参戦は軍事的価値を持つこれら太平洋諸島を日本の制海権に収める絶好の機会でもあったとも言えます。
1919年(大正8年)、マリアナ(グアムを除く)、カロリン、マーシャルの各諸島からなる旧ドイツ領南洋諸島は新しく結成された国際連盟の監視の下で日本を受任国とするC式委任統治領「南洋群島」となりました。
日本は「委任統治条項」に基づき「日本帝国の構成部分として」南洋諸島を統治しましたが、この地域に陸海軍根拠地や築城を建設することは禁じられていました。
南洋庁と南洋興発株式会社
1922年(大正11年)、海軍軍政を引継いだ文官制の南洋庁(パラオ)はサイパンに支庁を設置してマリアナ諸島の行政中心地としました。その行政援助の下に南洋興発株式会社は日本人移民による集約的サトウキビ農業に着手しました。
南洋興発株式会社は1920年代初め、当時の台湾の新高製糖の常務取締役であった松江春次が創設した製糖会社で、サイパン島およびテニアン島において特に沖縄出身の何千人もの移民を労働力として開墾、サトウキビ栽培から砂糖の精製に至るまでの大規模な製糖事業を起こし大成功を収めました。
「第一農場アスリート」
サイパン島の開墾は広大な平坦地があり、また地質も肥沃な島南部から着手され、アスリートをはじめオビージャン、アギーガン、ナフタンを含めこの一帯は南洋興発の「第一農場」と呼ばれていました。1930年代後半までにアスリートには学校、駐在所、商店などが建ち並び、約600人の日本人農業従事者が住む小さな隣組的社会が誕生しました。サイパンでは他にトトラム、チャチャ、タロフォフォ、バナデル地区に合計5か所のサトウキビ農場が開拓されましたが、アスリートはこのうち最も規模の大きな農場区でした。
島の各地の農場から原材料のサトウキビがチャランカノの製糖工場に軽便鉄道で運ばれ、精製された砂糖やその副産物である酒精(アルコール)は日本に移出されました。
しかし日本の国際関係の急速な悪化に伴いアスリートのサトウキビ畑は次第に変貌して行きました。
アスリートと「昭和8年海軍特別大演習」
1930年代初めより、満州における日本軍の軍事行動に関して日米外交の緊張関係が一層高まり、太平洋の両軍事大国間の「戦争」の可能性が囁かれるようになりました。日本海軍は日本本土に接近する米太平洋艦隊の動きを監視するため南北に伸びる哨戒線の防衛強化に乗り出しました。
天皇陛下と海軍特別大演習
1932年(昭和7年)、日本海軍は翌年に小笠原諸島およびマリアナ海域を含む広大な海域で実施を計画していた海軍特別大演習の準備を開始しました。これまでも特別大演習は実施されたもののわずか数週間であったのに対し、「昭和8年の特別大演習」は86日間の長期間に及び、優秀な艦隊司令官に率いられた180隻以上もの艦船と数十の飛行機を動員した未曾有の規模の大演習でした。日本の国際連盟脱退後の国際的孤立に伴う国家の緊急事態に即応して実施された戦争準備の一つであったことは明らかです。
この演習に関しさらに特筆すべきことは、天皇陛下が御召艦「比叡」で初めてマリアナ諸島海域の大演習を統裁されたほか、軍令部長伏見宮博恭王ほか皇室出身の軍人が多数参加したことです。
アト略
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