瀬居八十八ヶ所 お大師市
4月29日、瀬居島のお大師市に行ってきた。島に石仏が並んでいるのは前から知っていたが八十八仏もあるとは知らなかった。
お大師市の由来
今からおよそ二百年も前、瀬居島を治めていた宮本伝太夫は年貢を厳しく取り立てていたので、島の人々は大変苦しい生活をしいられていました。
人々は相談して大阪町奉行所に伝太夫のことを訴えることにしました。もし、この訴えで負けたら、今迄以上に苦しい生活が待っているに違いありません。人々は命がけでした。
全国各地の神様に「どうか、勝たせて下さい」と必死にお祈りしました。こうしたある日のことです。
又吉という一人の瀬居島の漁師が、宇多津の沖で漁をしていました。すると陸のほうから声がするので、その方を見てみると顔いっぱいにひげを生やし、汚れた衣に身を包んだ一人のお坊さんが「お~い、お~い」と大声で呼んでいます。
そこで又吉は「何のご用でしょうか」とおそるおそる尋ねました。「今から瀬居島まで船に乗せていってもらえないでしょうか」とお坊さんが言いました。
これを聞いて又吉は考えました。あいにく潮も引き、夕暮れも迫っていたので、船を陸に寄せることができません。しかし、心の優しい又吉は、お坊さんをこのまま捨てておくことができませんでした。
そこで又吉は、沖の瀬に船をつなぎ、ふんどし一つで約1キロあまりの浅瀬をお坊さんを背負って船に乗せました。
船に乗せるとお坊さんは「実は昨日から何も食べてない。大変おなかがすいて困っている」と言います。
又吉は自分一人分しかないお弁当を、二人で仲良く分けて食べ、いろいろな話をしながらお坊さんを連れて瀬居島に帰ってきました。船を浜辺につなぎ、お坊さんに「さあ着きましたよ。降りて下さい」と言いました。
ところが、一人しか乗っていなかったはずなのに、後から後からとお坊さんが降りていくではありませんか。
又吉はあっけに取られながらも、降りていくお坊さんを数えていたら、なんと八十八人ものお坊さんがいました。
この日が三月二八日だったそうです。それから瀬居島にはいいことが続いたので、島の人達は四国八十八ヶ所の場所にあわせて地蔵を置き、祭りました。
それから旧暦の三月二八日(現在は昭和の日)を祭日と決め「お大師市」としてその遺徳をしのんでいます。
一番札所の霊山寺と八十八番札所の 大窪寺はすぐ隣にある。
地蔵さんの前におさい銭カゴがあって、参拝者はお心まかせのお金を入れて行く。一円玉が圧倒的に多い。一円玉がなくなって両替する人もいる。
大師堂(四十二番札所 大日如来)
寛政十年、島民の厚い信仰により、観音様を瀬居島にお迎えし、当山にも観音様があったが、明治四十三年瀬居島の島民や坂出の信仰ある人達が島の周囲に島四国八十八ヶ所の石仏お大師様を迎え、おまつりした際、当山の観音様もお大師様と一緒の地にお移りになる。
此の岩山は古き弥生時代の石器が数多く出土し、また天正の昔、大阪城築城の石を切り出した残石や通路が残る歴史ある山であり、由緒を深める。
近年に至り瀬戸大橋が観望できる最適の山として脚光をあび、これを長く後世に伝うべく、昭和六十年五月 甫度西国十番山城の国宇治郡明星山三室寺より観音様をお迎えし、岩山観音像としておまつりしたものであります。
祈願あれば福徳あり
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