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瀬底島は約3k㎡の島。
↓ 飛行機の窓から撮った瀬底島の写真、晴天できれいに撮れた。
”森トラスト(昔の名前は「森ビル」)が瀬底島にリゾートホテルを開業”との記事が日経新聞・2015年12月28日に掲載された。
曰く、
森トラストは、2020年までに沖縄県で大型リゾートホテルを開業すると発表した。
沖縄美ら海水族館に近い瀬底島(本部町)の約33万5千平方メートルの土地と建物を取得する契約を結んだ。
本部町では大阪市のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)の運営会社、ユー・エス・ジェイが新施設の建設を計画しており、リゾート客の宿泊需要を見込む。
森トラストが沖縄県でホテル事業を手掛けるのは初めて。土地と建物は2016年2月に引き渡しを受ける予定。ホテルのブランドは外資を含めて検討する。
森トラストが土地を取得する場所はもともと、別の事業者(瀬底ビーチリゾート)がリゾートホテル用に建物の建設を進めていたが、数年前から建設が中断しているという。
森トラストはこの建物を活用するかどうかを含め、新しいホテルの建設計画を今後詰めていく方針だ。
日本一早咲きの桜まつりが1月23日から27日まで本部町の八重岳で開かれている。
こんなに早く桜の開花が見られるとは!さすが沖縄。
↓ 桜まつり入り口
入口から車でいっきに八重岳(453m)頂上広場の桜大明神まで上り、そこから桜を見ながら元の入口まで降りて来た。
↓ 頂上広場の八重岳桜大明神
↓ 桜並木が続く 頂上あたりは6部咲き、ふもとに降りるほど部数が減る。
↓ 内地(沖縄の人は本土と言わない)の桜よりピンクが濃い。
↓ 桜まつり会場入口・イベント会場は八重岳桜の森公園
まつり会場は、嘉津宇岳(かつう)・安和岳(あわ)・八重岳 自然保護区の中にある。
3つの岳からなる自然保護区で、一帯は主に古生代から中生代の石灰岩や珪岩からできており、一部に粘板岩や千枚岩がある。
この地域はイスノキ、タブノキ、ヤブニッケイを中心とした森林を形成し、カツウダケエビネ、カツウダケカンアオイ、ヒナカンアオイなど植物地理学上貴重な植物が自生する。
また、コノハチョウ、フタオチョウ、イボイモリ、カラスバトなど天然記念物の動物の生息地ともなっている。
↑ 水納島(みなじま)の形がクロワッサンそっくりな事から「クロワッサンアイランド」とも呼ばれる。
↑ この、もとぶ町総合案内図がいつ作られたかは知らないが、この図にはザ・ビーチGC(ゴルフ・カントリークラブ)の表示が残っている。
今もあればいいのになぁ~。
自彊術の歌ができた。取り急ぎ、メロディーは「四季の歌」を流用。
将来は作曲を誰かに頼んで正規の歌にするそうです。
前略
田中君の訃報に接し、奥様に手紙を書こう書こうと思いながら遅くなってしまいました事、お許し下さい。
訃報に、大いに驚き,悲しみ,やがて今から私も含め、同期生がぽつりポツリとあっちの世界に行くのは運命とあきらめ、覚悟して過ごす日々です。
思えば数年前、箱根の同窓会で奥様同伴で来られた田中君にお会いしたのが彼の顔を見た最後だったと悔やまれます。狭心症で治療中との話を年賀状?で聞いたことがあり、メールで病状について数回やりとりした事が思い出されます。亡くなられたのは、その病に派生したものと友人から聞きましたが、そうなのでしょうか。
申し遅れましたが、私は田中君とは徳島大学工学部電気工学科・昭和38年入学の同期生です。高校を卒業し初めて親元を離れ、ひとり暮らしが始まる不安の中、私が下宿先で出会った最初の友達が田中君でした。
そこは新築されたばかりの定員4名の下宿で、たまたま私と同じ電気工学科の新入生が4人入居致しました。
田中君とはふすま一枚で仕切られた隣同士の部屋で、最初に襖越しに聞こえてきたのは西田佐知子の歌声でした。それまで受験勉強で音楽などほとんど聞かなかった私には、とても新鮮で、LPレコードとプレーヤーを持っている田中君にも驚きました。彼は大の西田佐知子ファンで、毎日レコードを聞かされるうちに彼女の歌はやがて私の大好きな歌謡曲となり、学生時代の思い出となりました。最近めったに行かなくなったカラオケへ行くと、懐かしさで時には涙ながらに歌うこともあります。
そんな学生時代を一緒に過ごした田中君の思い出は数えきれないほどですが、中でも人とは違う価値観を持っていたような気がします。その顕著な例は卒業時に「僕はもう一年勉強するから」と卒業できたのに留年した事で、これには私も驚きました。
お互い卒業し就職してから、会う機会もないままでしたが、還暦の同窓会で何十年ぶりかで徳島で会ったことが、つい昨日のように懐かしく思い出されます。ここに田中君へ深く哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
早々
2016年1月20日
昔、ある山の上に本法寺(綾川町羽床下)という寺があり、そこには「ねぜり松」いう昼でも暗いぐらいようけ枝をはっとる松の木があった。
その幹の根元近くの穴に一匹のタヌキが住んどって、「おろく」と呼ばれよった。おろくはいたずらもするけど、不思議な力も持っとって、愛嬌があった。ほんで、寺のためによう尽くしたということや。
本法寺では仏さんを「なむみょうほうれんげきょう」と拝むんやが、そう拝まん人が寺に来ると、おろくはその人を寺に入れんようにするんやと。なんぼに門に近づけんで、いつまでもぐるぐると塀のまわりを回って「どうしたこっちゃ?」とへとへとになって座り込む人に、通りがかった村人は「あんた、おろくに化かされとるんや。なむみょうほうれんげきょうと一心に唱えてみ」と声をかける。
震えながら、目をつむってそう唱えたら、どうな。目を開けるとちゃんと本堂の前に立っとんやと。
それから、しょうねの悪い人には砂の雨を降らすんや。ザラザラザーとそらすごい勢いで降らすんで「うわぁ、おろくに見抜かれとる!もう悪い心は起こさん」いうて降られた人は逃げて行く。
また、おろくははよう気がつくたぬきでな。寺のおじゅっさんや小僧さんがばんげに帰ると、灯りをもって出迎えるんや。「おろく、おろく」いうて呼ぶと、灯りをもって出てきて、尾を振ったり、とんだりはねたり、後に先になって迎えてくれるんやと。
だいぶん時が経って、おろくの住んどった「ねぜり松」が切られてしもうた。ほんでもおろくはどこかに住み家を構えて、十五夜の満月の晩には「ぽんぽこ ぽんぽこ」と腹つづみを打って、ふもとの村に心地よい音を聞かせてくれたんやと。
今はもうすっかり陸続きになってしまっているのですが、番の州公園の北の方に二つの島がありました。
東の方の島を瀬居島、西の方の島を沙弥島と言いました。
ところが、大昔にはこの二つの島は、三味線島と呼ばれひとつの島でした。
何故このひとつの島が二つに分かれたのでしょう。
昔、三味線島には東西に二軒の金持ちがいました。東家と西家です。
どちらの家も大きな舟を持ち、大勢の奉公人を雇って堺や長崎の商人と商いをしていました。
東家には清吉、西家にはしのぶという娘がおりました。おそらく清吉としのぶが夫婦となって両方の家が益々栄えていくだろうと、みんな思っていました。
さて、東家の雇い人におみのという器量よしで働き者の娘がいました。東家の清吉は実はこのおみのが大変好きでした。またおみのもりりしく働く清吉が好きでした。
西家との婚礼話がおこった時、「私はおみのを妻にしたいのです。すいませんが西家さんに断ってくれませんか。」とお父さんに頼みました。
「馬鹿をいうな。おみのはうちの女中ではないか。東家と西家が結ばれるということは家にとってもお前にとってもいいことなのだ。おすみのことは忘れてくれ。」
それから間もなくして、東家からおみのの姿が見えなくなってしまいました。
清吉はたいそう悲しみました。
ある秋の夜のことです。朝からどんよりと曇っていた空から大つぶの雨が降り始めました。
風が強まってきました。台風です。何と七日間も嵐が続きました。
そして、それが収まったかと思うと今度は大地が大きく揺れる大地震がやってきました。続いて大津波がおそってきました。「逃げろ。逃げろ。」人々は島の高台に懸命に駆け登りました。
恐ろしい夜が明けました。
「あれ!。島が二つになっている。」
人々の指さす方を見ると三味線島はまっぷたつに分かれています。
人々は西の島を「しゃみ島」、東の島を「せん島」と呼びました。
二つの島を合わせると、元の「しゃみせん島」になりますね。
「せん島」はのちに「せい島」と呼ばれるようになりました。
また津波のためにできた州を「一晩でできた州」ということから、「ばん(晩)の州」と呼ばれるようになったということです。
この話、名前の由来が分かり、へぇ~と思ったが、肝心の清吉とおみのの恋物語はどうなったの???
島がふたつに分かれたのは、二人の仲を引き裂いた崇り? 一体誰のたたり?
謹 賀 新 年
新春を迎え皆々様のご健康とご多幸を
心よりお祈り申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます。歳月はますます早く流れはじめ、昨年はあっという間の一年でした。心と体が元気なうちに行ける所は何処へでも行こうと、多く旅に出たせいでもあります。
新年早々マレーシアに行き、春には沖縄、夏には北海道へも行きました。今まで高額だった飛行機がシニア料金と障碍者割引でぐんと安くなり、北海道や沖縄のように少し遠い所へ行くのがお手軽になりました。
また日常生活では頼まれて、囲碁を子供達に教える活動も始め、けっこう忙しい日々を過ごしました。
高校時代の親友が一昨年10月に他界して早や一年、彼の会社でISO認証のお手伝いをしていた私の役割も終わりつつあります。
また最近は同期の訃報も耳に入るようになり、今からの一年一年は生かされていればラッキー!と思って、健康を保つための努力はしながら生きようと思う昨今です。
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