« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »
百田直樹著”フォルトゥナの瞳”と言う小説を読んだだろうか?
主人公の車工場で働く20代の真面目な青年、木山慎一郎は、ある日突然、「人の死が分かる」という特殊能力があることに気がつく・・・・ということからストーリが展開していく。
死が近づいた人を見た時、手首,足首が透けて見え、死が間じかになると手,足全体が見えなくなる。
死ぬ直前の人は体がほとんど透け、着ている服や靴しか見えない。
そんな能力を持つ木山真一郎が心臓手術前の私を見たら、私はいつから手足が透けていたのだろう?
2012年12月にエントリーした高知県安芸市のタートルマラソンで、しんどくても途中歩くなんてしなかった事に不審を覚えた私は、年が明けた2013年1月、新年行事も終わったのを機に回生病院の心臓循環器内科へ健康診断のつもりで受診した。
結果は心臓冠動脈が7カ所も詰まっていて、いつ心筋梗塞を起こして死ぬかも知れない状態だった。
おまけに心臓から全身に血液を送り出している大動脈弁の機能低下で、送り出した血液の半分が心臓に逆流していると。
結果、心臓を止めて冠動脈バイパス手術と大動脈弁の生体弁置換手術をした。
2013年2月始めの事だった。
私の手足首は2012年の中ごろから透けていたのかも知れない。
死ぬのは怖くない、怖いのは死ぬ過程だ。
心臓バイパス手術の時、全身麻酔した。
病室から手術室へ運ばれ、今から麻酔しますの声が聞こえ、麻酔が覚めるまで記憶は一切ない。
その間8時間あまり、思えば「その時間帯は死んでいた」と思っている。
死ぬのは怖いと思うのは、脳というハードがあるから。
でもそのハードがなくなると、考えることもできない。
死とは肉体の機能が停止する事、もちろん脳の機能も。
麻酔は一時的に脳のハード機能を止める、即ち死んだのと同じ?
麻酔中に神さまや仏さまに会った事はない。
生き返った人が良く言う、お花畑の向こうから・・・・云々の景色は見えなかった。
そりゃそうよ、本当に死んでないんだから・・・・と言う声が聞こえそう。
私は死後の世界があるとは思えない。死んだら何もない。
だから、死ぬのは怖くない、それより死にゆく過程が怖い。
「すこししんどいから休むと言って二階に上がり、下りて来ないので見に行くと死んでた」
なんて死に方ができれば別だが、癌や病気で苦しみながら死ぬのは怖い。
ピンピンころり、そんな生き方ができるよう努力せねばならない。
大変難しいけれど!
最頂部の高さ:509.2m、屋上の高さ:449.2m、最上階の高さ:439.2mは、2007年ドバイに建設されたブルジュ・ハリファ(828m)に抜かれるまで世界一の高さを誇った。
台北101ビル(タイペイいちまるいち)は地下5階+地上101階からなり、「101」という名前の由来はここから来ている。
以下ネット情報
この「101」という数字にはデジタル時代を代表する符号であること、「100を越え更なる高みを目指す」という意味も込められている。
施工は日系企業が中心となって、約7年間かけてこの超高層建築物を完成。
もうひとつの東アジア一がここにあり、それは「東アジア最速エレベーター」。
こちらも2007年ドバイのブルジュ・ハリファに抜かされるまでは、世界一速いエレベーター(上昇時分速1.010m、下降時分速600m)としてギネスブックにも認定されていた。
上り分速1.010mの設定は名前にちなんで、意図的にそう設定したと思う。
この101のタワー部は8層おきに節があり、節は全部で8つある。
これは「發財」といって、お金がどんどん入ってくる数字と言われる「八」にこだわったとか。
また、節は竹の節を表し、遠くから101を望むと確かに1本の竹のように見える。
竹も縁起のいい植物で、台湾では昇進した人に「歩歩高昇」(どんどん出世していくこと)と書いたカードをつけて竹の盆栽を送ったりする。
もう一つ節のところに丸いものがついていますが、これは中国の昔のお金で、8層の節ごとについているのは金庫のカギを表します。
こんなわけで101は、竹であり、ドル箱であり、天下無敵の縁起担ぎのビルなのです。
ここにオフィスを構えれば、会社はどんどん儲かって拡大していきますよってことでしょう。
更に言うならば、なぜ台北のこの地に建てられたのかというと、それは台北で一番のいい風水を持つところだからです。
101の入口付近には、台湾のお店などでもよくある水が流れる(お金の回転がいいということ=商売がうまくいっている)場所があります。水がグルグル回って流れているということに意義があるのです。
建物の構造は言うまでもなく素晴らしいのですが、縁起物だらけの101、風水や縁起を担ぐのが好きな中国人ならではの発想。
台湾のお寺は日本よりずっと派手。
↓ 平光寺
↓ 平光寺は門が閉まって入れない。門扉越しに境内を写す。
↓ 布袋さん? の巨大な像が境内にでん~と・・・居座る。
↓ その参拝風景、この日は日曜日とて参拝客で溢れていた。
↑ 1967年に落成した新しいお寺で、毎朝早いうちから境内はお線香の煙につつまれる。
↓ 行天宮は、東京でいえば大手町にあたるようなビジネス街に位置するという。
人気の最大の理由は、ご本尊が商売の神様である「關聖帝君」であること。
關聖帝君とは、三国志でおなじみの関羽雲張のことで、真っ赤な顔と、黒くて長いヒゲが特徴。
関羽は劉備玄徳に仕える武将で、主君への厚い忠誠心が尊ばれ、死後、神として祀られるようになった。
武将である関羽がなぜ商売の神様となったのかは諸説あり、そろばんや簿記の発明者と考えられていることが有力な説。
商売熱心な人が多い台湾で、このお寺が人気というのも納得です。
■ 田空食堂(本部町 具志堅集落)
↓ 入口にヤギの看板、ヤギ汁定食が売りか?
ウンチェバーとは何だろうと注文した。
出てきた実物を見ると空芯菜のことらしい。
この食堂には、サラダのミニバイキングもありなかなか美味しかった。
■ ガジュマル(本部町)
■ 亀蔵(本部町)
■ UKAUKA(瀬底島)
↑ 軽食喫茶、最近ピザを始めた。ピザ釜で焼く本格ピザはうまい。
■ Gelateria Yahata(瀬底島)
TAKE OUT 可能とか。まだ入ったことはない。
ジェラートとは何?
一般的なアイスクリームと比べて空気含有量が35%未満と少ないため、密度が濃く、味にコクがある。
また、乳脂肪分は4〜8%で、一般的なアイスクリームより比較的低カロリー。
そのため、日本の乳及び乳製品の成分規格等に関する省令ではアイスクリームではなくアイスミルク(乳脂肪分3%〜8%未満)、もしくは氷菓に分類される。
知らなかった。
ナインボットなる乗り物をご存じだろうか?
写真を見たらあぁ~あれか! と思うに違いない。
テレビでも放映されたこの乗り物、もちろん日本では公道の使用は禁止されている。
このナインボットを15分500円で体験できるコーナーが、瀬底島のホテル”テーラー・シーク”前にできた。
6月に来た時、なかったのに。
宿泊客に利用してもらおうと、ホテルが運営している。
↓ 案内の看板
↓ 体験コース
草の覆い茂っていた空き地を整備し、コンクリートを貼って20mほどのコースができていた。
体験したかったが、乗りこなす自信はなく、転んでケガでもしたらと思い、退散。
↓ ナインボットの説明
アクセルやブレーキをなくし、運転者の重心移動だけで走行ができる。
前進・後退はそのまま前後の重心移動で行い、左右に曲がる動作はハンズフリーレバーを足で左右に傾けることで行う。
両手が空くので、荷物の持ち運びやカメラ撮影にも最適とか。
最近、竹コプターまがいの空飛ぶ乗り物や、このナインボットのような、えっ!何コレ? と思うものが良くテレビ等で紹介されている。
未来では車が空を自由に飛ぶこと間違いない。
その時はもはや車とは呼ばないだろうが。
9月15日、観月会をするからおいで、と、瀬底島で民宿・やどかりを営む松本さんに誘われた。
島内スピーカからも「本日18時半より観月会がありますので・・・」と
放送されるのを朝から何回も聞いた。
↓ 定刻ころ、会場に来てみるとまだこんな風、予想の範囲内。
↓ やがてお月様も顔を見せた。
松本さんに「観月会になに持って行けばいい?」と聞いた。
舞台で沖縄伝統舞踊があるので、月も見ながら舞台も観ながら飲んだり食べたりするから、自前でその用意をして・・・と。
缶ビールひとケースと乾き物のつまみを用意して参加。
↓ 伝統舞踊
この踊りを継承していく若い人達が減っていくなか、踊り手達が継承努力をしていくと言う強い決意の挨拶があり、観月会は無事終了した。
踊ってくれた皆様に感謝・感謝!
↓ 暮れなずむ九份の海
5年ほど前に来た時、こんなに多くの観光客はいなかった・・・と記憶する。
だんだん人気が出たのか、この日もすごい人・人・人・・・・。 歩くのにも苦労する。
行きかう人々の会話はほとんど日本語。
前回は一番上からこの路地に入ったと記憶、今回は一番下から案内され、いきなり階段を上る。
↓ 日本統治時代につくられた映画館
↓ 中に入ると
↑ 懐かしい風景、高松から坂出に越してきた時、国鉄鴨川駅近くに映画館があった。
その映画館へ亡き母が連れていってくれた。その風景と同じ。
見た映画は「ベンハー」だったと思う。
そんな映画を上映しそうな・・・・。
↑ ここが唯一広場になっていて、階段を上る人・階段から降りてきた人でごったがえす。
二度目の台湾、5年ほど前に柿茶の井上社長と来て以来。
その時も九份へ行ったが、今回も何故か懐かしい思いがして行きたくなった。
アニメ 「千と千尋の神隠し」の舞台を彷彿とさせる街並みが好きだ。
ガイドによると、九份という地名は開墾した土地を9人で分けたところから付いたと言う。
九份は台湾北部に位置する一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始された事に伴い、徐々に採鉱夫が各地から集まり、日本の統治時代に藤田組によりその最盛期を迎えた。
九份の街並みは今もその時代の面影を色濃くとどめている。
日本の台湾統治が終戦まで約50年も続いた事実を、今更ながら長い期間と再認識させられた。
今も、その間日本人がした良い事も悪い事も、現地人には語り継がれているに違いない。
第二次世界大戦後に金の採掘量が減りはじめ、1971年に金鉱が閉山されてから、町は急速に衰退し、元の一寒村に戻った。
その寒村が再び脚光を浴びたのは、それまでタブーとされていた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画 『悲情城市(A City of Sadness)』(侯孝賢監督)のロケ地となったことによる。
映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九份を訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。
アニメ 「千と千尋の神隠し」の舞台との説はスタジオジブリは否定している。
↓ 九份の街並み
↓ 千と千尋の神隠しの舞台と似た茶楼 「阿妹茶楼(あめおちゃ)」
↓ 湯婆婆(ゆばぁば)の屋敷
千と千尋の神隠しの映画のキャラクターの顔のお守りを店で買えます。
と、書いてある。
日本統治時代、金の採掘量が一時下火になった時、藤田組はその採掘権を現地の”顔”氏に譲り渡した。
しかしその後、顔氏の努力でまた新しい金鉱が見つかり、採掘量が増えて顔一族は繁栄したとか。
その子孫が、今日本で活躍する歌手”一青窈”さんだと、ガイドさんは結んだ。
最近のコメント