ユネスコ国際交流バスツアー(別子銅山)
1691年(元禄4年)に稼行開始、1973年に閉山するまで、実に283年間もの長きにわたり操業された別子銅山。
今は「マイントピア別子」の名で観光地になっている。
ここへ来るのは2回目。
トロッコ列車で端出場(ハデバ)坑道まで行く。
この銅山は、一説によると、元禄3年(1690年)阿波の渡り鉱夫・切上り 長兵衛が天領であった別子で、有望な「やけ」(銅鉱床の路頭)を発見し、備中吉岡銅山の住友家支配人・田向重右衛門に通報したのが事の始まり。
住友はこの別子銅山の開坑により、銅の製錬事業から資源事業へと軸足を移すことになり、財閥への足掛かりとなった。
本来、住友の銅事業は1590年、泉屋と称して、京都で銅吹きと銅細工を開業したことに始まる。
泉屋では全国から集めた原料を製錬していたが、このとき日本で初めて、南蛮吹きと称する銀・銅分離の技術を完成させた。
この技術が開発される前は、銅が銀を含んだまま輸出され、その分だけ損をしていた。
住友はこのような最先端技術の開発を行うことで大きな利益を上げ、事業の基盤を固めていったが、加えて別子銅山の発見はその後の住友の発展に拍車をかける事となった。
坑道内の見学が終わり、次は約10Km離れた東平(トウナル)へとバスで行く。
東平は標高750mに位置し、大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部が置かれた場所、こんな山の中に約 3,800人もの人が暮らしていたと言う。
もうビックリポンである。
従業員とその家族、銅山関係者を入れると、最盛期には 約5,000人もいたらしいから、採掘関連施設をはじめ、学校や病院、娯楽場、社宅などの生活施設も充実し、大いに賑わっていたと言う。
↓ 東平の全体図(パンフより)
⑪索道基地・貯鉱庫跡、東洋のマチュピチュと称されれいる。
↓東平の位置図
この日、バスで東平の駐車場に着くと、こんな霧 ↓
全く見えない。
↓ もし晴れていたら
↓ それでも帰る頃には全く見えなかった遺跡がぼんやりと見えるようになった。
↓ 昭和43年頃の東平
1973年に閉山されるまで、坑道の総延長は約 700Km、採鉱場所は海面下約 1,000mにまで達し、総出鉱量は約3,000万トン、産銅量は約65万トン。
山頂から掘り続けられた別子銅山は中心地を下へ下へと移動して行ったが、昭和43年(1968年)に休止され、無人地になって現在に至っている。
すごい歴史だ!
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