Jou光

  • 親父
    彼は子供の時から絵が上手いと、親の欲目で思っている。目の前でさらさら描かれると、ついつい感嘆してしまう。世の中いっぱい絵の上手い人はいるが、この道で飯が食えるのはスポーツ選手と同じで極一部。でもとにかく趣味でも良いから絵を描くことは続けて欲しいと願っている。

春爛漫

  • ぼけの花
    柿茶の里は徳島県美馬郡つるぎ町に位置する。柿の葉の生産農家へ毎年春と秋に行く。春はことさら美しい。桜が咲き乱れ山の木々が新緑に包まれる。澄んだ青空に身も心も洗われる気がする。

アユタヤ遺跡

  • Pict0266
    1491年に建てられた王族の守護寺院。3つの大きな仏塔には、ラーマティボディ2世と父、兄の遺骨が納められています。 寺院ではありますが僧は居住せず、王の礼拝堂として王族の儀式に使用されていました。この寺院もまた、1767年ビルマ軍により破壊され、16mあったという金で覆われた仏像も金を奪われた後、壊されてしまいました。

暁の寺院 タイ

  • Pict0350
    トンブリ王朝時代の守護寺で最高位の寺院とか。きらきらと輝く陶器の破片に覆われた高さ約79mの大仏塔は、ラマ3世により5年がかりで改装された。朝日を浴びた大仏塔の神々しい姿が”暁の寺”の名前の由来。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

  • Pict0201
    セイロンへの留学から戻ってきた僧侶のために、1357年初代王ウー・トーンが建立しました。仏教寺院は瞑想の場として使用されていました。現在も多くの仏教徒が訪れ、週末は観光客でにぎわいます。

水上マーケット

  • Pict0116
    ダムナン・サダックの水上マーケット。その昔、”東洋のベニス”と言われたバンコクでは、日常的商取引には運河が利用されてきた。水上マーケットは、古き良き時代の情緒溢れるバンコクの生活を体感させてくれる。 

2008年7月 タイ王宮

  • Pict0429
    白壁に囲まれた20万㎡の敷地内には、1782年に建設された国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などチャクリー王朝歴代の王により建造・改築された建物が建ち並んでおり、ラマ8世までは実際にここに住まわてていたとか。

涅槃寺

  • Pict0386
    タイ語で Wat Pho(ワット・ポー)と呼ぶこの寺は、ラマ1世が建立したバンコク最大の境内を持ち、バンコク最古の歴史を持つ寺院。本堂には写真のようなリクライニング・ブッダの愛称で親しまれている寝釈迦仏が横たわる。足の裏には螺細細工でバラモン教における108の宇宙観が表現されていると言う。

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2019年6月

健康語録から読み解く健康の神髄 By 豊岡倫郎 氏 2019-6-15

■ 健康に関する格言、名言から学ぶ

今から40年以上前に健康法に目覚めて以来、多くの健康に関する書物を読み、人の話も聞き、また実際に色々な健康法を体験してきた中で知り得た名言、格言を今回まとめてみた。健康で長生きするための健康道徳や健康哲学の拠り所となればと思い書きました。

■ 健康語録集

1.「長命を得んと欲すれば、腸内に滓なかるべし、腸清きものは長命す」

317年頃中国の葛洪(かっこう)が著した抱朴子(ほうぼくし)という書物に書かれている言葉である。便秘や宿便の停滞が如何に多くの病気の原因になっているかは、いまや誰でも知っていることであるが、その対策を講じてない人が多いのが現状である。正に便秘や宿便の停滞は万病の元であるから軽視してはいけない。

2.「人は血管と共に老いる」

アメリカの内科医ウイリアム・オスラーの言葉である。血管が老いるとは、どんな意味かと言えば、血管の柔軟性がなくなり、血中にコレステロールや脂質が増えて、内壁に付着し、毛細血管は硬化したり、消滅したりしている状態を指す。死因の上位を占める心臓疾患や脳卒中は典型的な血管の病気である。今まだ若き子供たちに動脈硬化の進んだ子が増えてきたと聞く。当たり前となっている欧米食中心の食生活の弊害に気付かない人が多いのは問題である。

3.「生きたものは生きたものに養われる」

これは生物界の大原則である。四つ足の哺乳動物で火食しているのは人間だけであるが、すべての食べ物を生食だけには出来ないが、健康生活のためには、生食も食生活に欠かせない。その典型的な事例は、大阪の八尾市で鍼灸院を営んでいる森美智代さんはここ19年間毎日150gの生の野菜の青汁一杯だけで生活している。現代医学の栄養学ではとても説明がつかないのである。21歳の時に脊髄小脳変性症を発症したのを、当時八尾市で開業していた甲田光雄博士の病院に入院し、何回かの断食療法と生野菜食によって、完治したのである。それ以来生野菜汁一杯だけの生活となった。生の玄米を粉にして食する場合も含めて生食療法と言う。栄養学的な効力以外にまだ解明されていない生命力のなせる業に違いない。

4.「腹八分に病なし」

いま日本に高血圧症、高脂血症、高コレステロール症、糖尿病、動脈硬化による心臓疾患や脳梗塞の人が溢れているが、これらの病気の原因は食べ過ぎ、飲み過ぎ以外の何物でもない。豊かな食生活が病人を作っているが、これは慢心以外の何物でもない。「食を制する者が、命を制する」ことを肝に銘じたいものである。歴史的に見ても、人は飢餓に強いが、飽食には弱い体質となっていることは医学的に証明されている。

5.「首が曲がっている人は夭折する」

これはイギリスにある格言である。二本足で立って、歩く人間の骨格は物理的にも歪みやすい。先ず足の指関節の歪みから始まり、足首、膝、仙骨、股関節、腰椎、胸椎、頸椎と順々に上方へ、影響を及ぼして行き、最終的に首を曲げることによってバランスを取ろうとする。椎骨からは脊髄神経が派生していて、臓器や組織の機能を制御しているが、骨格が歪められていると、神経組織が正常に働かない為に、臓器や組織が病んでしまうことになる。要するに骨格の歪みが万病の元となるのである。また骨格を支えるには適度に運動をして、周辺の筋力を強化して、骨格を正常に維持することも大事である。

6.「薬瞑眩(めんけん)せざれば病癒えず」

東洋医学では治療の過程で一時的に起こる身体反応のこと。別名では、自然治癒反応とか、好転反応と呼ぶこともある。出る反応の症状としては、病気や人によって様々で、例えば発疹、発熱、頭痛、倦怠感、はきけ、めまい、咳、眠気、便秘、下痢、腹痛、倦怠感などいろいろある。これを病気の悪化とか、副作用だと勘違いして、せっかくの治療法を中止する人もいる。こんな時は担当の医者に相談することである。例えば薬の服用の時ばかりでなく、急に朝食を廃止したり、生野菜汁を飲み始めたりすると、上述した症状が発生する。こんな時は段階的に徐々に実行してゆくと良い。

7.「病気には必ず原因がある。その原因を除去することこそ治療の王道である」

高血圧や糖尿病、高脂血症、高コレステロールなどの生活習慣病で、薬をせっせと飲んでいる人が多い。そんな人たちはこれら病気発症の原因が何であるか、また薬を服用していて、治る見込みがあるのかを真剣に考えているのだろうか。薬は単に症状を緩和しているに過ぎない。真の原因である暴飲暴食を止めることが王道の筈。こんな理不尽なことを平気で行っていては、薬の副作用に体が侵される日も近い筈。

8.「ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというのと同じ」

これは哲学者の西田幾多郎の「続思索と体験,続思索と体験以後」という題名の本に書かれている言葉であるが、この思想という言葉を健康法に置き換えると、健康法の盲点が浮かび上がる。

今まで幾多の健康法の本を読み、体験してきて感ずることは、この健康法さえ実行すれば健康体を維持できるとか、病気が治るという話が多い。今テレビや健康雑誌で健康ブームに沸いているが、それらから長所、短所を見抜く能力を身に着けたいものである。「無知は死を招く」という言葉がある。健康体を維持するために必要な、最低限の健康知識を身に着けないと、惑わされて大事な命をも縮めかねない。

9.「体はトータルシステムで成り立っている」

現代医学の盲点のひとつは、木を見て、森を見ないということである。漢方医学ではどんな病気であろうが、体全体の異常を見逃さないようあらゆる角度から診断している。西式健康法では頸椎、胸椎、腰椎に歪みがあれば、脊髄神経が圧迫されて、内臓の臓器や組織が機能が低下して、疾病を招く。その対策として木の枕をしたり、板の上に寝たり、金魚運動をして、骨格を矯正すれば、内臓の病気も治癒する訳である。またストレスが精神的な疾病だけでなく、免疫力を低下させ、血流を悪くして、万病を招くことが知られている。また食事が間違っていれば、当然あらゆる病気の原因にもなる。体は精神と骨格と食事の基本的な要素が連係して、健康体を維持している。

10.「血液循環の原動力は心臓に非ずして、毛細血管網にあり」

西式健康法を創設した西勝造氏の著書「無病長生健康法」によれば、心臓は体内の血流量を調節するタンクに過ぎず、血流の原動力は毛細血管の吸引力によるものであるという説を発表した。従って毛細血管を発達させて健全にすれば、体内の血液循環は良好になり、健康体になる。そのために毛管運動という体操をする。ここ数年前から現代医学でも血管の末端の微少循環が健康のカギを握ると言われ出した。

11.「悪事は良事を駆逐する」

どんなに体に良いことを実行していても、一方で体に悪いことをやっていては、せっかくの良事が活かされず、効果は上がらず、逆に悪いことがいつまでも影響を及ぼす。現在の生活態度を反省して、悪いことは何かを見極めて、止める事である。そのためには悪い事とは何であるかを、見極める知識を養わねばならない。

12.「病は血流の悪いところに宿る」

例えば体には、ガンに侵されない場所が三か所あると言われている。それは心臓、脾臓、小腸である。その共通点は血流が盛んであるからである。また運動選手はガンになりにくいとも言われている。ガンでなくても、百寿者はみな運動したり、体を動かしていることからも、血流が健康維持に欠かせないことが解かる。

13.「人は生きてきたようにしか、死ねない」

正にその人の今までの生き様が死に様を決めるということである。人は誰でも楽をして、美味しいものを食べて、長生きしたいと望んでいるが、それは自然の摂理に順応して生き延びてきた、人間の体の生理に決して適合しない生活態度であることを知らねばなるまい。「人体の生理は自然の摂理を超えられない」。人生は選択の連続である。パンを食べるか、ご飯を食べるか。肉を食べるか、魚を食べるか、過去の選択の結果が今の自分を作ってきたのである。

14.「白砂糖は灰盗なり」

ドイツの名言である。灰盗とはカルシュウムの略奪者という意味。砂糖の摂り過ぎは体液を酸性にして、それを中和するために骨からカルシュウムが抜けてゆく事を指している。テレビではやれグルメだ、スイーツだと騒いているが、砂糖の過剰摂取の恐ろしさを知ってほしい。

15.「皮膚は内臓の鏡」

ヘッド氏によると、いろいろな内臓の疾患があると、その臓器に相当するある一定の皮膚上の部位に知覚過敏帯が出来るという。漢方では、胃が悪い人は顔色が白く、肝臓の人は黄色く、腎臓の人はどす黒く、心臓の人は赤いという。

16.「1リットルの水は1トンの化粧品に勝る」

肌を綺麗にするには、水分が不足しないように、一日に最低1リットルから2リットルの水を飲むのがよい、赤ちゃんの肌がツルツルなのは水分が多いからで、加齢と共に水分量が減ってゆくから、不足しないようにする。水の効用は他にもたくさんあるから怠らないようにする。

17.「健康法の要諦は重点管理にあり」

些細なことをあれこれ実行するよりも、一番効果のあることを実行することがベストである。

そのためには、いろいろな健康法に無知では選択肢がない。どんな健康法にも長所、欠点があるから、良かれと思って実行していることが、無駄であったり、逆に健康を害するものではあってはならい。グッドよりもベター、ベターよりベストなことを実行することが要諦となる。

18.「夢を無くした時から老化が始まる」

肉体的老化にも気を配らねばならないが、人生に夢や目標を持って、前向きに生きる事が肉体的にも精神的にも老化を防止する要となる。また知ろうとする気持ちが無くなったら、陳腐化して、人との会話にもついて行けず、世間に取り残されてしまう。何事にも疑問を持ち、調べようとする姿勢を持とう。例えば老人でも白内障になる人とならない人がいる。どうしてだろうか?

19.「嗜好品は死向品である」

お酒が好きな人、タバコを止められない人、甘いお菓子や飲み物が毎日の日課になっており、それが楽しみであり、生きがい?と思い込んでいる人がいる。我々はこれまで身近にこれら嗜好品に溺れて早々に亡くなった方々をどけだけ多く、見てきたことか。これ位なら大丈夫だろうとか、私は別だと思って、自分の置かれている状況が解からない人がいる。健康を論ずる時に、好き、嫌いの基準を持ち込んでは、事は先に進まない。

20.「内皮は外皮に通じる」

内皮とは腸のことで、外皮とは皮膚のことである。要するに腸の状態次第で皮膚の状態も決まるという意味である。腸内環境が悪玉菌が多くて炎症を起こしていたり、便が停滞していると、その影響が皮膚に反映されて、くすんだり、シミが出来たり、艶が無くなったりする。甘いものや肉食ばかりしていると、どんどん腸内環境が悪くなる。

21.「体は一大化学工場である」

口から入る食べ物は胃や腸、肝臓で消化、分解されて、血や肉、骨となってゆくが、口から入る食べ物の質次第で、血や肉、骨などの質も左右される。何人にも平等に体内で化学反応が起きる。

要するにインプットの質が悪ければアウトプットの質も悪いから、食べ物は吟味して、体に良いものを摂取する必要がある。

22.「目は目にして、目に非ず」

栃木県の回生眼科院長山口康三先生の言葉である。目の健康度は決して体の健康度を上わまらないという。いま白内障や黄斑変性症の患者が激増しているという。悪い生活習慣が患者を増やしている原因であるから、先ず体全体の健康度を上げる治療をする事によって、治療の効果を上げ得るという。

23.「医は食を超えられず」

糖尿病も高血圧も、高脂血症も根治させることが出来ないから、どんどん患者が増えている現状に、限界を感じて断食や少食や食事療法に活路を見出して、実績を上げている医者が沢山いる。

正に医は食を超えられなかったのである。これが本当のセカンドオピニオンではないのか。

24.「予防に勝る健康法はなし」

私は孫の結婚式を見るまで長生きしたいのですが、と医者に相談に行く人がいますか。いないと思う。ではその人は長生きの方法をどうして見つけ、実行しているのだろうか。また実行しているとすれば、それが正しいやり方なのだろうか。あれが良い、これが良いと毎日テレビで放送されているが、鵜呑み出来るのだろうか。予防に関心を持つのは良いことだが、本当に効果のあることを実行してもらいたいものである。

25.「老化は足から」

良く耳にする言葉である。人間も動物である。歩かないとどんどん足が衰えてゆく。加齢と共に筋肉の量も減ってきて、更に加速度がついて衰える。下半身に全筋肉の70%がある。老化防止には適度な運動と足の強化は必須である。足が衰えると腎臓の働きも低下する。腎臓の機能低下は耳鳴りや難聴の遠因と言われている。

26.「腹も身の内」

ひと時の口福に酔いしれて、腹がパンパンになるまで飲んだり、食べたりしないと満足しない人がいる。体の内臓はその都度黙々とその処理に忙殺されている。体の悲鳴に耳を傾けられる気持ちを養いたいものである。いじめに気が付かないことでは配慮が足りない。

27.「病気には医者に治してもらう病気と自分で治す病気がある」

いわゆる生活習慣病の類は本当に治そうとする気持ちがあれば自分の努力で治すことが出来る。

無知な人はその方法を知ろうとしないだけである。病気は医師の力でなく、意志の力で治すものである。

28.「馬を池のほとりまで連れて行けるが、水を飲ますことはできない」

今まで何年間も月例の健康会で、誰でも実行でき、効果のある健康法のお話してきた。しかし一期一会も生かされず、戸惑う人も多く、実行されないのは歯がゆい。好機高齢者になってほしい。

29.「一病息災」

病気になって初めて知る健康の有難さ。酒は美味いし、何を食べても、どこも痛くも痒くもない人が陥るのが、ガン、高血圧、糖尿病などの生活習慣病である。一度大病を患った人は反省して二度と無茶をしないから長生きするという。

おわり

ひまわり

毎月行っている金毘羅さん奥社へのウォーキング途中、まんのう町でひまわり畑に遭遇。

お見事としか言いようがない。

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調べてみると、

まんのう町は、仲南地区帆山を中心に、特色あるまちづくりの一環として【ひまわりの里づくり事業】に取り組んでいる。

平成29年度の栽培面積は町内全域で約22ヘクタールで本数にして約100万本の花を咲かせます。

特に帆山団地では、毎年約5ヘクタールもの団地化された圃地で作付けが行われており、一面黄色の花で埋め尽くされます。

「ひまわり」の花の魅力を町内外の方にも楽しんでもらおうと、お祭りも計画して毎年開催しています。

との事でした。

安兵衛

高知へ行ってきた。

目的はかつをのたたきを食べるため。金曜日会社が終わってから出発。

予約しておいた高知市内の ” 閏 (うるう)” というお店へ。

↓ まずはお造り。

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↓ 塩たたき

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↓ トウモロコシの天ぷら

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どれも大変美味だった

大満足したあとは屋台へ。

昨年も屋台で食べた餃子の味が忘れられず二次会の舞台にした。

屋台の名前は保兵衛、屋台とは言え創業昭和45年(1970年)というから約50年の

歴史がある老舗。東京にも支店があるくらい成長している。

椅子席は満員、立ち飲み席を急遽作ってくれた。

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↓ ここにこんな看板があった。

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 この看板を見た時、少し感動! へぇ~こんなアイディアが浮かぶなんて・・・凄い!と。

酒の国と呼ばれる高知県には数は減ったものの屋台文化が色濃く残り、今でも営業している店が多い。

飲みの〆でラーメンを食べるのが一般的だが、酒呑みの多い高知の屋台ではラーメンだけではなく、お酒のアテが多く置かれていた。

そのなかで、ある屋台の餃子がアテにも〆にも食べやすく美味しいと評判になり、

高知の屋台では餃子が主流となり『酒を飲んだ後は屋台の餃子で〆る』文化がうまれた。

のだそうな。

現在では屋台だけではなく餃子専門店や、多くの飲食店でその餃子が置かれるようになり

いつからか屋台の餃子は『屋台餃子』と呼ばれるようになる。

今では高知名物の一つに代表され、県内外問わず、多くのお客様に愛されるようになった。

とか。

この安兵衛さん、夜遅くまで営業していてお客のにぎやかな事。

宿泊したホテルの窓から見下ろせる所にあったとは、部屋に入るまで知らなかった。

午前3時くらいまで営業していたのだろうか? とにかくうるさかった。

前田 敏子先生作品集 ⑦

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前田 敏子先生作品集 ⑥

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前田 敏子先生作品集 ⑤

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前田 敏子先生作品集 ④

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前田 敏子先生作品集 ③

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健康への道しるべ Vol.139 号

心と体の健康生活:令和元年6月1日発行

令和になって最初の号。

■ 発行:健康への道しるべ友の会 編集 増田 桂子

■ 〒420-0962 静岡市葵区東1-14-31、Tel:054-245-8141、Fax:054-245-6142

■ 年間購読料:2,500円

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インドネシア旅(タマン・サリ)

タマン・サリとは「美しき庭園」の意味を持つジョグジャカルタの宮殿。

王宮「クラトン」から車で5分ほどで行けるこの宮殿には、スルタン(王)に仕える女性たちが水浴びを楽しんだと言われる石造りの入浴場がある。

周りをとり囲む花園は、優雅で華やかな宮廷時代を彷彿とさせる。

↓ 入口道路

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↓ 入口門

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↓ 門をくぐると

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↓ 奥にまた門があって、そこを抜けると、プールのような大きな池がある。

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ここはクラトンの建設から10年後にジョグジャカルタの初代スルタン・ハメンクブオノ1世によって建設された。

王様の水浴び場で、大きな池があるから「水の宮殿」とも呼ばれる。

今も堅牢な煉瓦造りの壁で囲まれた宮殿の内側には、三つの池の跡が残されている。

王に仕える女性たち(日本でいえば大奥の女)がここで水浴びを楽しみ、王は宮殿の窓越しにその様子を眺めていたとか。

女性たちは王に気に入られるためにここで美を競ったのだそう。

いつの時代も男女の駆け引きは同じか?

↓ 王が覗いていたであろう部屋からの風景

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インドネシア旅(ジョグジャカルタの王族が住む王宮)

2019年1月18日、朝食後観光に出発、まず行ったのは現在もジョグジャカルタの王族が暮らす王宮「クラトン」。

日本でで言うと皇居みたいなものか?

この王宮は、ジョグジャカルタを統治する歴代のSultan(スルタン、君主)の住居として1790年に完成。

インド洋を背景に、メラピ火山に向かって北向きに伸びるマリオボロ通りの端に位置する。

ここには現在もハメンクブウォノ10世が住まうが、一部は博物館として一般に公開している。

定期的に宮廷舞踊や民族音楽などの伝統芸能が上演されるという。

↓ 入口

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インドネシアの伝統とヨーロッパ文化が融合したジャワ建築の最高傑作とされ、

その一部は博物館として多くの調度品や楽器、バティックの衣装などが展示されている。

↓ 中に入ると

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↓ 修学旅行だろうか? 学生が大勢いた。

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↓ 王族の紋章

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↓ 歴代君主が住む王宮

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↓ 博物館入口

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↓ 博物館内部

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とにかく王宮は広かった

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インドネシア旅(ギャラリー プラヴィロ タマン ホテル)

ジョグジャカルタでの宿泊はギャラリー プラヴィロタマン ホテル(Gallery Prawirotaman Hotel)。

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↓ 入口

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↓ 外観

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↓ ホテル各室

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↓ プールは必須設備らしい

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ジョグジャカルタはバリ島と違い圧倒的にイスラム教徒が多い。

だから部屋の天井にこんな矢印がある。↓

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「キブラッ」と読む。

この矢印はメッカの方角を指している。イスラム教徒は1日5回、メッカの方角に向かってお祈りを捧げる。

そのため各ホテルの客室にはイスラム教徒に分かるよう、天井に矢印をつけている。

そういえばマレーシアへ行った時にも見たようなきがする。

インドネシア旅(ジョグジャカルタ)

14時50分バリ発、ジョグジャカルタ着は15時半。

バリとの時差で飛行時間はほぼチャラにはなってはいたが、あいにくの雨で辺りは少し薄暗かった。

この日は街の中を少し散策してホテルへ向かう予定。

↓ 歩道にでん~と巨大なライオン

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バリでは見なかった乗り物が、馬車とベチャと云う自転車タクシー。

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↓ ベチャ、三輪の自転車。

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↑ 運転手が客待ちで客席に座り、雨宿り。

↓ 営業中のベチャ

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ベチャについてガイドのラハさんによると、運転手のほとんどが地方から出てきた出稼ぎ者。

農閑期に田舎から出てきてベチャで稼ぐ。

元締めがいて、稼ぎからベチャのレンタル料とフランチャイズ料を取ると云う。

儲けは少ないのでベチャで寝泊りする人もいる。なかなか大変な仕事だ。

また、ここは学生と自転車の町だとラハさんが言う。

その訳はここには20か30の大学があって人口の45%は学生とか。

いろいろな所から学生が集まってくる街。

インドネシア旅(ジアジスチプト国際空港)

ジョグジャカルタに到着。空港の名は「アジスチプト国際空港」。

アジスチプトの名は1947年7月29日インドネシア独立戦争において、インドネシア空軍の作戦でオランダ軍に撃墜されたパイロットであり、彼の名前を記念して名づけられたと云う。

とにかく広いが、空港には普通にある空港ビルから搭乗できるボーディング・ブリッジ はない。

外国でもいろんな空港へ行ったが、こんな空港は初めてだ。すべての乗降客はタラップを使う。

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飛行機を降りてゾロゾロ出口へ向かう。

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国際空港とあって飛行機がたくさん並んでいた。

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↓ 出口

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空港の便所へ行った時、なるほど!と感心した便器に遭遇。

↓ 飛散防止のアクリル板がはめ込まれている。

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公衆トイレで小便器周りの尿飛散は日常茶飯事。

”一歩前へ”の掲示があるものの飛散を踏むのが嫌で前へ進めない。

おぅ!飛散防止の解決策はこれだ! と思った。

日本にも導入したら絶対売れる!

誰か製品化してくれないかなぁ~。

インドネシア旅 (4日目)

この日は午後よりジョグジャカルタへ行く移動日。

従い午前中は自由時間、タウムホテルの周りを散策する事にした。

ホテルの屋上に上がってみた。

↓ 屋上からの風景

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熱帯地方ののどかな風景が広がっている。

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↓ ホテル前の道路

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↓ コンビニ 「MINI MART」と「Circle K」ばかり

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ホテル前の道路を歩いて行くとやがてお店や飲食店が並ぶ通りに出てきた。

この辺では繁華街か?

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どこへ行ってもオートバイだらけ。乗って走る人、駐車しているバイクの列。

車も多いが、日本同様凹んだり極端にボロ車は走っていない。

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街は若い人が多く活気にあふれている。

メイン道路から脇道に入ると、↓ こんな風景が広がる。

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↓ ホテルを外から見ると

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↓ ヒンズー教の神様はどこにでもいるし、姿かたちもマチマチ

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ガイドさんがホテルへ迎えに来てくれ空港へ行く。

空港からもGWK像が見える。存在感抜群だ!

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一時間40分のフライトでジョグジャカルタへ到着、バリ島との時差は1時間、日本からだと2時間の時差がある。

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インドネシア旅 (タナロット寺院)

↓ タナロット寺院はここにある。

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タナロット寺院はバリ島中西部の海岸にある寺院でバリ六大寺院のひとつ。

すぐ近くの小さな島にあって干潮時には陸続きとなり、歩いて渡ることができるという。

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夕暮れ時には美しいシルエットを形成し、とても綺麗と聞いたがあいにく昼間行ったので見ることは叶わなかった。

16世紀にジャワの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがこの地を訪れ、この景観こそ神々が降臨するにふさわしい場所として、村人に海の守護神を祀る寺院を建てるよう勧めたのがはじまりという。

海岸の洞窟には、寺院の守り神とされる海蛇の巣があり、お布施を払うと拝観することができる。

↓ 寺院へのアクセス道路

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↓ 沿道には土産物店が並ぶ。何処の観光地でも同じ。

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↓ 入口らしき門柱の像

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門らしき門柱を抜けると広場があった。

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広場からタナロット寺院へ行く道と反対側にあるバトゥボロン寺院へ行く道がある。

↓ タナロット寺院への道

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↓ バトゥボロン寺院への道

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↓ タナロット寺院

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↓ 船の舳先のような岩島 人が上陸できるのか旗が立っている。

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とんがり帽子の真ん中を切ったような門、割れ門と言うらしいが至る所にある。

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↓ 夕日が美しいと言うからネットで調べてパクリ写真

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轟の滝

轟の滝は、数久田川の河口から南東に約1.3Kmさかのぼったところにある。

久志岳と辺野古岳が源。

高さ約28m,滝壺の幅約8m,深さ約1.5m。

1721年に冊封使(サクホウシ)=「中国からの使者」が琉球の様子を記した『中山伝信録』という書物の中に「松堂 轟泉有り」との記述があり、轟泉がこの滝の事で、この頃から良く知られていたという。

滝の様子を詠んだ同時代の和歌も残っていて、当時から琉球王国の中でも風光明媚な景勝地として有名だったことが分かる。

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↓ この日は雨の後とて、水量が多く見ごたえがあった。その名のとおりゴウゴウと轟いていた。

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『轟の滝』と同じ名護市にあるヘリオス酒造の泡盛に『轟』がある。

この泡盛の銘柄は『轟の滝』にちなんで付けられたと云う。

サキシマスウオノキ

国頭郡東村字川田下福地にある村指定天然記念物。

この木はアオギリ科に属し、奄美大島以南の亜熱帯から熱帯にかけて生えている木で、板のような根=板根 をつくることで有名。

ここのサキシマスウオノキは、高さ18m,胸高周囲約2.9mで、地上から1m余りのところから板根を出している。

12本の板根は流線形をなし、沖縄本島では最も発達した板根とか。

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東村とは ↓

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日本一のパイン村 ↓

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東村では『ストップ! ロードキル』運動実施中で、今年の交通事故件数・【ヤンバルクイナ 3件】【ケナガネズミ 2件】との表示があった。

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この辺りにしか生息しない生き物の生存を願ってやまない。

国道五十八号

五十八号線は鹿児島県鹿児島市から沖縄県那覇市の明治橋まで続く一般国道でその距離・609.5Kmと日本最長。

昭和47年5月15日の沖縄本土復帰に伴い沖縄県国頭郡国頭村字奥新田原五百四十一番地の一が県内に上陸する地点。

その地点にある石碑がこれ ↓

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海の上に国道があるなんて・・・初めて知った。

茅打バンタ

↓ 場所はここ、辺戸岬の近く

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バンタとは崖を意味する沖縄の方言。 

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ここ、茅打バンタは約80mの断崖で、この名は「茅を投げ込むと吹き上がるほど風が強い」ことから由来すると看板に記載している。

なんのこっちゃ!と思ってしまう。茅を投げるか???何のために???

↓ 断崖の眺め

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ヤンバルクイナ

ツル目、クイナ科、クイナ属の鳥で、沖縄本島北部に位置する 山原(やんばる)にのみ生息する事からこの名が付いたと云う。
1981年に発見された当初は新種と思われなかったらしい。

全長約 35㎝、体重約420gの飛べない鳥らしいが、私は実物を見たことはない。そこでパクリの写真。

↓ 実物のヤンバルクイナ

写真:ヤンバルクイナ

この鳥を模した巨大像が辺戸岬近くにあるというので行ってみた。

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鳥の中に階段があって首のあたりに展望室がある。

↓ そこからの眺め

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↓ 足までリアル、子供が見たら恐ろしさに泣き出すという。

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辺戸岬から晴れた日に見えるという与論島に、2000年3月 沖縄県国頭村から友好の絆として贈られたヤンバルクイナ像があるらしい。

↓ その像がこちら(ネットから)

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国頭村でこのヤンバルクイナ、いろいろな所で活躍している。

↓ オリンピックで世界記録更新のため鍛えているヤンバルクイナ。

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↓ 新元号”令和”を祝うヤンバルクイナ

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辺戸岬

沖縄本島最北端の辺戸岬へ行ってきた。那覇から約120Km離れている。

最北端と云う点で北海道の宗谷岬みたいなものかも知れぬ。

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↓ 辺戸岬へ行く手前にある北国小学校、沖縄は南なのに北国とは・・・名前がいい!

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↓ 岬からの眺め

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この日は快晴で遠く水平線上にかすかに与論島を望むことができた。

この岬は沖縄がアメリカ統治下だった時代、本土復帰を願い、国境の海の向こう与論島へ向けて狼煙を上げていた場所とか。

そして対岸の与論島からも狼煙を上げ、本土復帰を支持していたそう。

また年に1度は「辺戸岬」と与論島との間の洋上で本土との交流集会も行われていた。

↓ 沖縄が本土に復帰した際、建てられた「祖国復帰闘争碑」。

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↓ 「全国の そして全世界の友人へ贈る」と記された碑文

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吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ

打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 〝鉄の暴風〟やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
  米軍占領に引き続き 1952年4月28日
  サンフランシスコ「平和」条約第3条により
  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
  しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
  全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
  今踏まえている 土こそ
  辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
  しかるが故に この碑は
  喜びを表明するためにあるのでもなく
  ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
  人類が 永遠に生存し
  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
  生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

この碑文の内容には胸を突かれる。復帰後4年を経て立てられたらしい。

本土復帰を単に喜ぶ内容ではない。

返還後もなお軍事基地としての役目を負わされている現状を愁いている。

↓ 岬からのビュー

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舞子

大学の同期会で徳島に一泊したあと、明石に用事があったので徳島駅からバスに乗った。

バスは三ノ宮が終点だが、最寄り駅・高速舞子で下車。

明石方面には度々行くが舞子駅に降りた事はない。ご存知、舞子は明石大橋の本土側地点。

時間つぶしに舞子公園を散策した。

↓ 明石大橋の勇壮な景色を堪能した。

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↓ 舞子公園

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健康へのトビラ Vol.18 発行のお知らせ

今回のトビラは令和最初の発行となりました。

まずお伝えしたいのは、創刊より「健康エッセイ」を執筆されていた北川 博敏先生が去る3月20日にお亡くなりになられました。

ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

「健康エッセイ」は次回より新しい企画が始まりますので、よろしくお願いいたします。

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徳島城跡

学生時代4年間も徳島にいたのに、この城跡がある城山には一度も行ったことがなかった。

彼女でもいればデートで行ったかも知れないが、あいにく彼女もできなかった。

4月3日、同期会が開催された時、時間つぶしに散策した。

城跡の城は徳島城、豊臣秀吉の命を受けて天正13年(1585)に阿波国の領主・蜂須賀家政により築城された。

幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたり居城し280余年の間、阿波・淡路両国25万7800石を支配した。

↓ 鷲の門 

この門は城の南東に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付の薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し出て建造した事から鷲の門の名がある。

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折しも桜の季節、堀にピンクが映えてきれいだった。

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↓ 本丸跡

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徳島城の山城部分には本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸が置かれていた。

本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中で最も面積が広く重要な所だったようです。

徳島城が完成した時、これを祝って踊ったのが阿波踊りといわれているとか?

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