辺戸岬
沖縄本島最北端の辺戸岬へ行ってきた。那覇から約120Km離れている。
最北端と云う点で北海道の宗谷岬みたいなものかも知れぬ。
↓ 辺戸岬へ行く手前にある北国小学校、沖縄は南なのに北国とは・・・名前がいい!
↓ 岬からの眺め
この日は快晴で遠く水平線上にかすかに与論島を望むことができた。
この岬は沖縄がアメリカ統治下だった時代、本土復帰を願い、国境の海の向こう与論島へ向けて狼煙を上げていた場所とか。
そして対岸の与論島からも狼煙を上げ、本土復帰を支持していたそう。
また年に1度は「辺戸岬」と与論島との間の洋上で本土との交流集会も行われていた。
↓ 沖縄が本土に復帰した際、建てられた「祖国復帰闘争碑」。
↓ 「全国の そして全世界の友人へ贈る」と記された碑文
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
〝鉄の暴風〟やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
この碑文の内容には胸を突かれる。復帰後4年を経て立てられたらしい。
本土復帰を単に喜ぶ内容ではない。
返還後もなお軍事基地としての役目を負わされている現状を愁いている。
↓ 岬からのビュー
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