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2019年9月28日,29日の両日、四国ブロック・ユネスコ活動研究会が新居浜で行われた。
今回の主催は新居浜ユネスコ協会、会場はリーガロイヤルホテル新居浜。
新居浜ユネスコ協会は今年で設立15年、その間新居浜南高等学校が四国初のユネスコスクールに認定されるなど現在市内28の全小中学校がユネスコスクールの加盟校となり、学校と地域の特色を生かしたESDを実践している名高い協会である。
今回の大会でもその実力どおり、日本ユネスコ連盟も含め四国各地より120名強の関係者が集結した。
↓ 会場のホテル
私の所属する丸亀ユネスコ協会からも川松会長はじめ9名が参加。
午後1時 開始に先立ちオープニングセレモニーが始まった。
出しものは「別子銅山せっとう節」
「せっとう」とは、「石頭」とも書き、鉱石を採掘するためのハンマーのこと。
鉱山には古くから仕事歌が伝わっていて、同じ歌詞もあれば異なった歌詞もある。
江戸時代から明治~大正期に、慣行的に行われた「渡り坑夫」によって山から山へ歌い伝わり、各鉱山特有の歌詞が生まれたとある。
別子銅山で歌われたものは現在「別子銅山せっとう節保存会」により受け継がれているとか。
セレモニーは盛況のうちに終了、いよいよ大会が幕開けした。
今回の大会テーマは「持続可能な社会の実現に向けたユネスコ活動」
↓ まず開催地の新居浜ユネスコ協会・吉田会長よりのご挨拶
初代会長だった青野氏が相談役に退き、今年5月に二代目として就任したばかりという。
その後日本ユネスコ協会連盟や新居浜市長からの挨拶が続き、基調講演が始まった。
講演は鳴門教育大学客員教授・名誉教授で四国地方ESD活動支援センター長でもある近森憲助氏による『持続発展教育(ESD)とユネスコスクール』
講演でESDとは、
「おとなが育つプロセスをいい、その”おとな”とは過去に学びながら、今はもちろん将来の人々や地域,日本,世界の事を考え、社会で生き社会を維持しより良い社会に変えていこうとする人」
と説かれた。
またユネスコスクールはESDの推進拠点として位置づけられた学校で、前に記載したように四国では新居浜市が発祥の地。
この後、発表されるスクール活動の報告を楽しみに聞いてほしいと締めくくった。
近森先生の講演を聞きながら、自分に照らし合わせ、先生の言う”おとな”には まだまだほど遠いと実感。
基調講演が終わり、ユネスコスクールの活動報告が小学校・中学校・高等学校の順で行われた。
↓ 新居浜市立泉川小学校の皆さんによる発表
↓ 新居浜市立船木中学校の生徒による発表
↓ 新居浜南高等学校三年生・伊藤君によるESD国際交流プログラムへの参加報告
彼らの発表を聞き、さすが四国のユネスコスクール発祥の地・新居浜を強く認識、四国ブロック大会に大抵は参加して来た私だが、今回の新居浜はさすが他とは違うな~と強く感じた次第。
活動発表の後は、四国中央市豊岡台病院の医院長・枝廣 篤昌先生による講演と落語。
えっ~落語も やってくれるの・・・?。
この先生、「笑い」で支える精神医療をモットーとする精神科医。
演題は【「笑い」を深く理解すると平和が生まれる】
まず落語から始まった。
着物姿で登壇、芸名は「芸乃虎や志」(げいのこやし)と凝っている。
プロの高座を見たことはないが、見に行ったらこんな感じだろうと思わせるプロ並みの舞台。
大いに笑った後、一転して大まじめな講演となった。
曰く、
笑いには人を惹きつける「誘引作用」、見知らぬ者同士でも笑う事で仲良くなる「親和作用」、
笑う事で体内の毒素を出す「浄化作用」、ゆとりを生み出す「解放作用」の4っの作用があると説く。
さらに「笑い」は 【快の笑い】【社交上の笑い】【緊張緩和の笑い】に分類される。
人間しかしないと言われる『笑う』という動作をここまで掘り下げて聞いたのははじめて。
なるほど!なるほど・・・と大いに納得、
一日目の日程はこうして無事終了した。
高松港には良く客船が入港する。
入港情報は香川県が発行する広報誌に載っている。
で、船好きの私はその情報をたよりに時間があれば見に行く。
今回入港する客船は 115,879トン、客船でこんなにでかいのは私ははじめて。
乗客定員・2,706人、乗組員・1,100人、全長・290m、幅・37.5m、速度・22ノット(41Km/H)。
2004年三菱重工業で建造された船、川崎重工業では客船を建造した事がない。
造船屋にとって客船の建造は夢の仕事だと現役時代に聞かされた事がある。
当時、客船はイギリスでしか造れないと言われていたから。
日本の造船所の中で豪華客船を建造したのは三菱重工がはじめてと思う。
ちなみにモス型LNG船を日本で建造したのは川崎重工業がはじめて、それも私がいた坂出工場で。
JR高松駅からすぐ近くの港に客船の姿はなかった。
と云うのも、でか過ぎて着岸できないので玉藻地区5万トン級岸壁に停泊していたから。
↓ いつもの岸壁はこちら
↓ 玉藻地区は遥か向こうだった
さすがでかい!
ウキペディアによると、
日本国内で建造された客船の中ではアイダー・プリマとアイーダ・ペルラに次いで最大クラス。
1337室のうち72%の960室はいわゆる「オーシャンビュー」とし、56%の748室には専用バルコニーを具備している。
この船の姉妹船にサファイアプリンセス号があるとか。
三菱重工の客船建造中、火災事故などのトラブルがあったと聞いている。
また近年客船建造から撤退したとも。
今治城下の「言い伝え」が城内の展示室にあった。
読むと大変悲しい話しで、今時 親が自分の子供を殺すのと大違い!
自分の身は犠牲にしてでも子供の生末を案ずる母親の気持ちは、時代がいかに変わろうとも動物も含め全人類共通の思ひではないでしょうか。
ほんと! 涙が出そうになったのでご紹介します。
『 飴買い幽霊と赤ん坊 』
今からおよそ300年前の江戸時代中頃のお話。
ある寒い夜更けの今治城下、旭町の飴屋の惣兵衛さん方へ白い着物の女が音もなく入って来ました。
女は一文銭を差し出しながら飴を指さしました。
惣兵衛さんが飴を渡すと女はすうーと消えるように出ていきました。
次の日も女はあらわれ同じように飴を買って帰りました。
そんなことが六晩続いた七日目の夜、女の手には一文銭がありませんでした。
ただ黙って何か言いたげな女を可哀そうに思った惣兵衛さんは、いつもより多く飴を渡しました。
女は嬉しそうに微笑むと、しきみ(しきび)の葉を一枚置いて帰っていきました。
いつもと様子が違うので、惣兵衛さんは気になって女の後をつけました。
すると女は明積寺(今治市鳥生)の境内でふっと消えました。
惣兵衛さんが耳をすますと、新しいお墓の下から赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。
惣兵衛さんは和尚を呼んで墓を掘り起こしてみると、一週間前に身ごもったまま死んだ若い母親のそばで、飴を持った赤ん坊が泣いていました。
女の首にかけられた六文銭がなくなっており、人々は母親の愛情の深さに感心しました。
その赤ん坊は明積寺の和尚によって育てられ、学信和尚という今治を代表する名僧になったという言い伝えが残されている。
今治城は江戸時代のはじめ頃、築城の名手・藤堂 高虎が瀬戸内海に築いた名城。
砂浜という軟弱な地盤にもかかわらず、伊予半国(愛媛県の約1/2)の大名(20万石)にふさわしい城郭を当時の技術を結集して築城。
高虎の代表作となった。
広大な城郭とその城下町はその後の今治市の発展の礎となった。
この城の特徴は広大な水堀と高い石垣。
水堀は全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で日本三大水城のひとつ。
堀は水路で今治港につながっていて潮の満ち引きで水位が変わる。
海水魚が泳ぐ一方で堀底から真水が染み出している場所があり、そこには淡水魚のミナミメダカが泳いでいるとか。
現在の天守は昭和55年に今治市政60周年を記念して再建されたもの。
中は歴史資料館と自然科学館になっている。
↓ 藤堂 高虎公の像
↓ 天守閣から見下ろすと、この城が海につながっているのが一目瞭然
■ 今治城沿革
藤堂高虎公は慶長5年(1600年)関ケ原の合戦に東軍・徳川家康方の先峰として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた。
当時の諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定めた。
渡邉勘兵衛を築城奉行に任命し木山六之丞を普請方として、慶長七年より同九年にかけ築城。
城壁の高さは六間ないし八間とし、本丸には五層の天守閣その他には櫓城門など二十数棟を配し、周囲に三重の城濠をめぐらした。
この城濠に海水を導入して当時としては他に類をみない一大平城を構築した。
その後、家康に信任された高虎公は慶長十三年伊勢の津に国替え増封されたが、その時の天守閣は家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じてその城に移築した。
今治城はその後 義子・高吉が二万石で維持した後 寛永十二年(1635年)に伊勢長島より久松 定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。
広島県尾道市因島にある万田発酵(株)へ行った。
TVのCMでも見た万田発酵の本社が因島にあるとははじめて知った。
工場見学もさせてくれるという。
因島には特別の思い出がある。
川重に入社して神戸工場に勤務した最初の5年間、舶用タービンの制御調整で因島へは度々行った。
当時因島には日立造船因島工場があって、大型のタンカーを建造していた。
その頃大型タンカーのプロペラを駆動するエンジン(主機と云う)はタービンで日立造船では川重製を採用していた。
それでタービンの遠隔制御の調整工事や試運転で何回も行った。
今思えばあの頃が懐かし~い。
その懐かしい地に万田発酵の会社があるなんて・・・。
↓ 企業製品を紹介するゲストハウス
江戸時代の元禄年代から因島にあった蔵元"万田"の11代目当主・松浦新吾郎が、1961年から発酵食品の研究をはじめ1984年に万田酵素を開発して販売を開始、これを機に1987年会社を設立した。
健康食品販売をメインに、化粧品・医療・アグリバイオ事業などを展開している。
農業用万田酵素を用いて巨大な農産物を育てている万田びっくりファームに ↓
ひょうたんも異様に大きい⁉
万田酵素を使って育てた野菜をTVで見た事がある。
こんなに大きくなるとは ‼、でも味はどうなんかなぁ~。
↓ ファームの向こうには瀬戸内海の島々の風景が美しく広がっていた
↓ 工場でガラス越しに酵素の保管容器が並んでいるのを見学
発酵というと温度や湿度管理が難しいんだろうなぁ~。
松江城は初めて、国宝だとか。
↓ 立派な石垣の入口が見えてきた。この石垣、ごぼう積みと呼ばれる方式なんだそう。
↓ 正保元年~4年(1644~1647年)江戸幕府の命により作成された絵図に現在の地図を重ねて表示した案内図
松江城天守は、四重五階地下一階の構造で高さ約30m。
貴重な現存天守のひとつとして1935年に国宝となり重要文化財に指定された。
この城は堀尾吉晴により、築城開始から5年の歳月をかけ、慶長16年(1611)に完成した。
堀尾家は豊臣秀吉,徳川家康に仕えた家柄。
吉晴は 関ヶ原の合戦で武功をたて、慶長五年(1600年)出雲・隠岐両国24万石を与えられた。
この城は前面に附櫓(ツケヤグラ)を設け、最上階から四方を見渡せる複合式望楼型天守とし、白壁を少なくして黒い厚板で覆った下見板張りが特徴。
軸組みは長さ二階分の通し柱と周囲に包板を鎹や帯鉄で取り付けた柱が多用されるなど独自の構法が用いられ、近世城郭最盛期を代表する城郭建築物として極めて高い価値がある。
城主は堀尾氏→ 京極氏と続いたが、いづれも嗣子なく断絶、その後松平氏が十代続き一度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えた。
↓ お城の敷地内にある松江神社
松江神社は、1931年(昭和6年)に、松江藩中興の明主として仰がれた7代藩主・松平治郷と、松江開府の祖・堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀している。
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