今治城
今治城は江戸時代のはじめ頃、築城の名手・藤堂 高虎が瀬戸内海に築いた名城。
砂浜という軟弱な地盤にもかかわらず、伊予半国(愛媛県の約1/2)の大名(20万石)にふさわしい城郭を当時の技術を結集して築城。
高虎の代表作となった。
広大な城郭とその城下町はその後の今治市の発展の礎となった。
この城の特徴は広大な水堀と高い石垣。
水堀は全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で日本三大水城のひとつ。
堀は水路で今治港につながっていて潮の満ち引きで水位が変わる。
海水魚が泳ぐ一方で堀底から真水が染み出している場所があり、そこには淡水魚のミナミメダカが泳いでいるとか。
現在の天守は昭和55年に今治市政60周年を記念して再建されたもの。
中は歴史資料館と自然科学館になっている。
↓ 藤堂 高虎公の像
↓ 天守閣から見下ろすと、この城が海につながっているのが一目瞭然
■ 今治城沿革
藤堂高虎公は慶長5年(1600年)関ケ原の合戦に東軍・徳川家康方の先峰として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた。
当時の諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定めた。
渡邉勘兵衛を築城奉行に任命し木山六之丞を普請方として、慶長七年より同九年にかけ築城。
城壁の高さは六間ないし八間とし、本丸には五層の天守閣その他には櫓城門など二十数棟を配し、周囲に三重の城濠をめぐらした。
この城濠に海水を導入して当時としては他に類をみない一大平城を構築した。
その後、家康に信任された高虎公は慶長十三年伊勢の津に国替え増封されたが、その時の天守閣は家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じてその城に移築した。
今治城はその後 義子・高吉が二万石で維持した後 寛永十二年(1635年)に伊勢長島より久松 定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。
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