Jou光

  • 親父
    彼は子供の時から絵が上手いと、親の欲目で思っている。目の前でさらさら描かれると、ついつい感嘆してしまう。世の中いっぱい絵の上手い人はいるが、この道で飯が食えるのはスポーツ選手と同じで極一部。でもとにかく趣味でも良いから絵を描くことは続けて欲しいと願っている。

春爛漫

  • ぼけの花
    柿茶の里は徳島県美馬郡つるぎ町に位置する。柿の葉の生産農家へ毎年春と秋に行く。春はことさら美しい。桜が咲き乱れ山の木々が新緑に包まれる。澄んだ青空に身も心も洗われる気がする。

アユタヤ遺跡

  • Pict0266
    1491年に建てられた王族の守護寺院。3つの大きな仏塔には、ラーマティボディ2世と父、兄の遺骨が納められています。 寺院ではありますが僧は居住せず、王の礼拝堂として王族の儀式に使用されていました。この寺院もまた、1767年ビルマ軍により破壊され、16mあったという金で覆われた仏像も金を奪われた後、壊されてしまいました。

暁の寺院 タイ

  • Pict0350
    トンブリ王朝時代の守護寺で最高位の寺院とか。きらきらと輝く陶器の破片に覆われた高さ約79mの大仏塔は、ラマ3世により5年がかりで改装された。朝日を浴びた大仏塔の神々しい姿が”暁の寺”の名前の由来。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

  • Pict0201
    セイロンへの留学から戻ってきた僧侶のために、1357年初代王ウー・トーンが建立しました。仏教寺院は瞑想の場として使用されていました。現在も多くの仏教徒が訪れ、週末は観光客でにぎわいます。

水上マーケット

  • Pict0116
    ダムナン・サダックの水上マーケット。その昔、”東洋のベニス”と言われたバンコクでは、日常的商取引には運河が利用されてきた。水上マーケットは、古き良き時代の情緒溢れるバンコクの生活を体感させてくれる。 

2008年7月 タイ王宮

  • Pict0429
    白壁に囲まれた20万㎡の敷地内には、1782年に建設された国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などチャクリー王朝歴代の王により建造・改築された建物が建ち並んでおり、ラマ8世までは実際にここに住まわてていたとか。

涅槃寺

  • Pict0386
    タイ語で Wat Pho(ワット・ポー)と呼ぶこの寺は、ラマ1世が建立したバンコク最大の境内を持ち、バンコク最古の歴史を持つ寺院。本堂には写真のようなリクライニング・ブッダの愛称で親しまれている寝釈迦仏が横たわる。足の裏には螺細細工でバラモン教における108の宇宙観が表現されていると言う。

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2020年2月

毛細血管が健康を左右する 2020-2-27 By 豊岡倫郎 氏

1.毛細血管の働きが見直されている

体内の血管の総延長は約10万キロメートルある。地球二周半の長さに相当する。その血管の

95~99%が毛細血管で占められている。毛細血管は約100億本あるという。そして、今医学界

でその働きが健康を左右すると注目されている。あなたの毛細血管ゴースト化していませんか。

2.血液の流れ

全身を流れる血液の総量は、体重の約8%と言われている。60㎏の人なら5リットルの血液が

全身を流れている計算になる。心臓から押し出された血液は動脈を通って、段々細くなった小

動脈から末端の毛細血管まで行くと、隣接する組織細胞に酸素と栄養分を供給して、戻る時には

二酸化炭素(炭酸ガスともいう)と老廃物を受け取り、今度は小静脈から大動脈を通って、心臓に

戻って来る。

体には約38兆個の細胞があり、心臓から出た血液が、体の隅々まで行き渡り、また心臓に戻

って来る時間は平常時では約1分かかるという。その間に5リットルの血液が一巡している。

3.毛細血管の構造

毛細血管の太さは5~15ミクロン(1ミクロンは千分の1ミリ)で、その中を血液の成分である

赤血球、白血球、血小板、そして液体成分である血漿が栄養分やホルモンなどを含んで、流れて

いる。赤血球は7~8ミクロン、白血球は10~15ミクロンがやっと通れる太さである。

動脈や静脈の壁は内膜,中膜、外膜から成り立っているが、毛細血管の構造は、下の図のよう

に、内皮細胞があり、その外側には壁細胞が密着している。

動脈から毛細血管に血液が流れてくると、赤血球の酸素が血漿中に放出されて、血漿が壁細胞

から染み出て、隣接する組織細胞の細胞液となる。組織細胞は細胞液から酸素と養分を受け取る

と、二酸化炭素や老廃物を細胞液に渡す。そしてその細胞液が毛細血管の壁を通って、血漿とな

り、静脈に入って戻って行くという、非常に緻密な構造と働きが、わずか一分間の短い時間に展

開され、継続してゆく。

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4.毛細血管にあるグローミューとは何か

上図の右端の図を参照。小動脈から最先端の毛細血管で細胞との間で一連の代謝をした後、

血液は小静脈へと還流してゆくが、実は図示されているように毛細血管の手前にグローミューというバイパスがある。別名動静脈吻合とか、AVAと称することもある。

グローミューの働きは環境の変化に応じて、本能的に血流を確保したり、体温の低下を防ぐために、自律神経が血流をコントロールしてくれるのである。例えば冷たい空気や水に皮膚が触れたりすると、体温を逃がさないように、皮膚の表面の毛細血管が縮む。そんな時はグローミューが開いてバイパスを通って血液は環流してゆくのである。もしグローミューがなかったら、心臓への血液の戻りが遅くなってしまい、体全体の血流システムに支障をきたす。

5.毛細血管の衰え

「人は血管と共に老いる」という名言を残したのは、1900年ごろ活躍したアメリカの医師・ウイリアム・オスラーである。2019年に発行された高倉伸幸著「ゴースト血管をつくらない33のメソッド」毎日新聞出版発行、という本がある。著者の高倉伸幸氏は大阪大学教授で20年にわたり血管の研究に携わり、最近はテレビにも出て、ゴースト血管のお話をされている。ゴースト血管の名付け親でもある。ゴースト血管とは血液が流れにくくなって、壊れやすくなってしまい、老いや病気の原因につながる状態の形骸化した毛細血管のことをいう。

毛細血管の数は加齢と共に減少して行き、例えば皮膚では60~70代の人は、20代の人に比べて、約40%も減少していると言われている。

6.ゴースト血管が体に及ぼす影響とは

血流の悪いところに病気が発生すると言われているように、体の隅々まで血液が流れなければ、どこに、どんな病気が発症しても不思議ではない。例えば、息切れ、便秘、肝機能低下、腎機能低下、むくみ、糖尿病、肺炎、アトピー症、リウマチ、骨粗しょう症、老眼、認知症、ガン、高血圧、動脈硬化、冷え症、シミやシワ、むくみ、疲労など上げれば切がない。

7.ゴースト血管発生の原因

ゴースト化を早める原因には、加齢、運動不足、大食、活性酸素による酸化、AGE(終末糖化産物)、飲酒、砂糖、ストレスなどがある。これ等によって、上述した毛細血管の内皮細胞と壁細胞との密着が緩んでしまい、一連の毛細血管と細胞との代謝に障害が起きる。

1904年に西式健康法を創設した西勝造先生は、その著書「無病長生健康法」の中でこう述べている。「過剰な飲酒は動脈硬化を招き、グローミューは硬化したり、変質したり、開放しっぱしとなる。糖分が過剰になると、糖尿病系となり、グローミューは消失したり、軟化したり、委縮する」と。

8.ゴースト血管予防とグローミューの強化策とは

  • 西式健康法では、毛管運動、温冷浴、裸療法をする。特に毛管運動は仰向けに寝て、両手両足を垂直に上にあげて、微振動をさせることによって、毛細管現象を促進して、手足の血流を良くするし、グローミューを再生させる。西式健康法では、血流の原動力は毛細血管の吸引力にあるという論拠から毛管運動を実行して、病気予防と治癒に効果を発揮している。
  • 飲酒や砂糖の入ったお菓子や飲み物を摂らない。
  • 大食しない。動脈硬化や高コレステロールを招く食品を摂取しない。
  • 毎日健康体操をして体全体の血流を良くする。筋肉の拍動も血流を援助している。
  • ビタミンCを生野菜ジュースや柿茶から摂取し血管を強化し、血液の質と流れを向上させる。
  • 日頃から薄着を心がけて、皮膚を鍛える。
  • ストレスに負けない強い精神力を養う。ストレスは血管を収縮させて血流を悪くさせる。
  • 壁細胞はアンジオポエチン1を分泌して、内皮細胞の受容体のTie2(タイツー)との連携で密着しているが、加齢などで隙間ができると、一連の代謝が悪くなる。タイツーを活性化させるにはシナモンやヒハツ(ロングペッパ―)が良いという。

9.まとめ

中国の古典・大学にある言葉「心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず・・・」

と。何事も問題意識を持たないと、出会いも出会いであることに気付かないのでは。

おわり

健康への道しるべ  第143号

 心と体の健康生活:令和2年2月21日発行

■ 発行:健康への道しるべ友の会 編集 増田 桂子

■ 〒420-0962 静岡市葵区東1-14-31、Tel:054-245-8141、Fax:054-245-6142

■ 年間 購読料:2,500円

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今年6月21日にNPO法人健康を考えるつどいが主催する講演会もご案内として掲載していただいた。

↓ 左端の似顔絵は編集者の増田 桂子氏作、上手だ。

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地獄めぐり(龍巻地獄)

この地獄は間歇泉で、一定の間隔をおいて熱湯と噴気を噴出する。

世界の間欠泉の中でもその間隔が短いことで注目されている。

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↓ 噴出口 蒸気の気配もない。

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↓ こんな風に吹き上がる

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間歇泉の周期的な噴出構造は地下の水圧と沸騰温度との微妙な関係によって起きると考えられている。

地下の深いところより高温の熱水(150 ℃)が上昇してきて空洞に集まり、熱水の気化現象で水蒸気になり空洞内の圧力が上って地表の大気圧より高くなった時に温熱水を噴出する。

熱水が噴出により減少すると、洞内の圧力が下がり大気圧に抑えられて噴出は止まる。

世界的に有名な間歇泉は、アメリカのイエローストーン国立公園やアイスランド,ニュージーランド等にあるが、噴出周期の短い点ではここが一番いい。

日本人が住んでいるから、そのせっかちな性格に合せてくれたのかなぁ~???と勝手に思う。

30分~40分おきに噴出するので、園内に入ったお客さんは ↓ ここで待つことになる。

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入園して待つこと約20分、噴出が始まった。

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蓋がなければ30mほど吹き上がるそう。噴出は10分間ほど。

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噴出が始まるまで赤鬼と黄鬼が待ち時間をつないでくれた。

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これで七カ所周り終え終えた。どれも迫力満点!

直木賞作家で天台宗の僧侶でもあった今 東光氏の『地獄賛』をご紹介。

ダンテにしてもミルトンにしてもブレークにしても、その描いた天国はちっとも美しくもなければ面白いこともない。

それなのに地獄編になると全く凄まじい楽しさだ。

そこには生きるものの残虐さが遺憾なく表現され、僕など極楽へやってもらうよりは地獄行を願いたい。

偉大な詩人や作家によって描写される天国も地獄も近代人にとっては恐ろしいところでもなく、羨ましいところでもなくなった。

しかしながら我が別府に遊ぶと八大地獄が現前する。これは確かに恐ろしい地獄に相違ない。

熱湯が噴出し轟々と地鳴りがし、生きた巨大な鰐が数えきれないほど蠢き、鬼こそ目に見えないが足を滑らせたら、一瞬にしてこの世のものではないのだ。

地獄の釜より熱いだろうと思うと地獄へ行きたい根性などかき消えてしまう。

人間は一度は現世の地獄を見、何等かの意味でおのれを空しうして反省し、生きる道を考えるには別府の地獄の諸相を目の当たり見ることを寧ろ御すすめしたい。

地獄をくぐって生き返った人間こそ本当の人間だからだ。

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地獄めぐり(血の池地獄)

↓ 血の池地獄の入口

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中に入ると ↓

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煮えたぎる粘土は噴気まで赤色。豊後風土記に「赤熱泉」と記された日本最古の天然地獄。

ここから算出する赤い粘土で皮膚病に効く「血の池軟膏」がつくられているとか。

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温泉のおさらい

1、地獄とは温泉の熱湯が絶えず噴き出す所を言う

2、温泉のしくみ
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温泉のしくみは、雨水が地下に浸透し地球深部のマグマによって高温になった熱水だまりが地中のいろいろな成分を取り込んで、再び地表に噴き上がってくるもの。

現在吹き上げている温泉は50年ほど前の雨水というから驚き。

3、温泉の分類方法

① 湧き出し方:自然に湧き出るかポンプで人工的に汲み上げる。

② 湧き出る状態:噴気(蒸気),温泉(熱水),沸騰泉(蒸気+熱水)

③ 湧き出る温度:冷鉱泉(25℃以下),低温泉(25~42℃),高温泉(42℃以上)

④ 1~3の分類の他 成分や効用などによる分類もある。

地獄めぐり(白池地獄)

五つ目の地獄は「白池地獄」

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噴出時は無色透明の熱湯だが池に落ち、温度と圧力の低下で自然に青白色となる。

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泉温 95℃、泉質は含ホウ酸食塩泉、塩化ナトリウム、珪酸、重炭酸カルシウム等を含有し胃腸病に、また入浴すれば皮膚病に効果があるという。

園内に温泉熱を利用して熱帯魚を飼育展示する熱帯魚館があり、アマゾンの大王魚・ピラクルや人喰魚・ピラニア他 数種類の熱帯魚を飼育している。

↓ 淡水熱帯魚 養魚池

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↓ 温泉熱を利用して池の温度を上げる仕組みを説明する 分かりやすい看板があった。

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↓ 園内マップ

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↓ 一遍上人の像があった。

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一遍上人とこの地獄がどんな関係なのか調べてみた。

上人が建治2年(1276年)諸国念仏行脚の途中、別府の浜(上人が浜)に辿り着き、今の「鉄輪」を訪れ、荒地獄に悩まされているのを知り、大蔵経を一字一石に書写して地獄に埋め、荒地獄を静め、一大温泉郷開発の礎を 築いたといわれています。

鉄輪の蒸し湯温泉も一遍上人が設けたとされています。

地獄めぐり(鬼山地獄)

鬼山地獄はこの地が石垣荘鉄輪村鬼山という地名に由来する。

別名「ワニ地獄」と言われるのは、大正11年 日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を始め、現在 クロコダイル科,アリゲーター科のワニ約80頭が園内で飼育されているのが由来。

↓ 入口

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この園内にあるマレーシア・サラワク州の伝統家屋を再現した建物は、地獄の噴気成分のナトリウムによる腐食に強いボルネオ鉄木を使用して建てられたもので、日本で初めてマレーシア政府から輸出許可を取ったもの。

↓ その建物がこちら「マレーシアハウス」

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↓ 中に入ると湯気が出ている池が目の前に。

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地下187mから自然に湧出る沸騰泉で 99.1℃の高温泉、涌出量は1時間8トン、一日約200トン。

ちなみに別府市全体では源泉数約2,800カ所、一日約10万トン。

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【 鬼山地獄の生い立ち 】

■ 明治期:

古来地元では猛烈な熱湯,噴気から農作物への被害が出ていた所を地獄と呼んで、時の地主もその管理には手を焼いていた。

たまに田畑の畦道を歩いてそれを見に来る見物人もいたが、見料は特に取っていなかった。

明治43年その地獄のひとつを「宇都宮 則綱」が借り受け、ひとり 5銭の観覧料を取って観光施設として整備・開業した。

それが地獄めぐり観光の始まりで宇都宮 則綱21歳の時。

その後 彼は周辺の地主と手を組み エンマ会(現在の地獄組合の前身)をつくって宣伝活動を開始した。

■ 大正期:

則綱は 油屋 熊八,梅田 凡平,原 北陽らと別府宣伝協会を設立し、関西汽船の前身である大阪商船に頼み 大阪 ⇔ 別府 航路の増便を具申。

結果「紫丸」「屋島丸」などこれまでより大きな客船の導入と増便が実現した。

また大分県に地獄循環道路を提案し、大正10年に県道が完成して「別府地獄観光」の利便性が向上した。

更に則綱は観光施設の多彩化を図るため温泉熱利用の「ワニ園」を提案、賛同を得て大正11年には20匹のワニを借り受け、豊後國志の石垣荘鉄輪村鬼山の地名に由来して「鬼山地獄」と名付けた設備をつくり ワニの飼育を開始した。

日本で初めて温泉熱を利用した養鰐株式会社となった。

当時はアリゲーター種のみだったがシンガポールからクロコダイル種の輸入も行った。

大正14年 梅田 凡平ら宣伝隊が富士山山頂に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」の標識を立てたという。

■ 昭和期

昭和3年に油井 熊八が「亀の井自動車」を設立し、大型バスにて地獄八カ所と別府市内をめぐる『地獄めぐり』コースを設定し、

全国に先駆けて女性バスガイドを登用した観光が別府観光の 更なる飛躍につながり、来客数は急増した。

■ 平成期

第一回アジア九州地域交流サミットが平成6年に開催された時、マレーシアのマハティール首相が鬼山地獄に来園し、飼育ワニでは長寿大きともに世界一の「シャムワニ」と「マレーシアハウス」を観覧。

国際的なワシントン条約で輸入規制が強まる中、平成9年,27年,29年と卵の孵化に成功し、別府生まれのイリエワニが温泉熱で育っている。

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↓ イリエワニ

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ワニは熱帯に住む動物で寒さに弱いため冬場は池に温泉を入れ30度に温めている。

地獄の立役者・宇都宮 則綱

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地獄めぐり(かまど地獄)

かまど地獄は温泉湧出量が日本一。

古来より氏神の竃門八幡宮の大祭に地獄の噴気(泉温 90℃)でお供え飯を炊いた習わしがあった事から「かまど地獄」と名付けられた。

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↓ かまど地獄 一丁目

ここの池の色は地下にある岩盤が地熱によりできた粘っこいいろんな種類の粘土が溶け出した色。

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↓ かまど地獄 二丁目

かまど地獄のシンボル・かまどの鬼がお釜の上に居座る。

岩の間からは100℃の蒸気が噴き出している。

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看板に書いてあるのは「かまど地獄の不思議」

うっすらと湯けむりが出ている噴気口に向かいタバコの煙を吹きかけると、噴気口から湯けむりがぶわっ~と上がる。

ガイドのお兄さんが実験してくれました、びっくり。

温泉の蒸気とタバコの煙や火の粒子が物理変化をして蒸気の量が瞬間的に数倍、数十倍になるからだとか。

↓ かまど地獄 三丁目

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コバルトブルーの池の水際には、白い石灰岩のようなもので縁取られている。

これは非晶質のシリカで温泉沈殿物(桂華)であり、70年前後かかってできたものと推定されている。

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↓ かまど地獄 四丁目

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ここの池の色は地下による岩盤が地熱によりできた粘っこい色んな種類の粘土が溶け出した色。

酸化鉄の色ではないとの事。

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↓ かまど地獄 五丁目

ここの特徴は池の色が変わる事。年に数回ある日突然色が変化するという。

ブルーになったりグリーンになったり色が濃くなったり薄くなったり・・・、その原因は不明とか。

この地球、分からないことがまだまだいっぱい、宇宙人だってこの世に紛れ込んでいるに違いない。

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↓ かまど地獄 六丁目

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六丁目の鉄の濃度を測定したら510㎎/Lと他の2点と比べかなり高い値で、このことから赤褐色のほとんどが鉄の酸化物(Fe₂O₃)と推測されている。

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かまど地獄を後にし鬼山地獄へ向かう。

地獄めぐり(海地獄)

鬼石坊主地獄を後にし睡蓮の池をぐるっと廻ると海地獄への入口が見えてくる。

↓ スイレン池

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↓ 入口

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入口を入ると否が応でも お土産売り場の中を通らされ、海地獄へ出る。

そこにはコバルトブルーの水面が広がっていた。

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沖縄の海を思わせる色、違うのは湯気が出ている事。

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それもその筈 温度は98 ℃もあるらしい。

1200年前鶴見岳の噴火によりできたもので、豊後風土記には「玖倍理の湯」と記載されている。

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池の青色は、温泉中の成分である硫酸鉄が溶解しているためだと。

園内で温泉熱を利用してアマゾン地方原産のオオオニバスや熱帯性睡蓮を栽培している。

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冬だから花はないか・・・と思いきやポソポソ咲いていた。

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↓ 大鬼蓮(VICTORIA  REGIA =ビクトリア女王)

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原産地はボリビア英領ギアナアマゾン地方で、巨大な葉は直径2mにもなり花も40㎝とか。

↓ 海地獄のすぐ横に白龍稲荷大神がある。

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家内安全、商売繁盛、交通安全のご利益がある。

海地獄からかまど地獄へ行く間、血の池地獄かと勘違いした赤い地獄があった。

血の池地獄と区別して赤池地獄???

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案内のパンフレットにも載っていない。赤い色は酸化鉄を含んでいるからだそう。

地獄めぐり(鬼石坊主地獄)

次男と一緒に別府へ行ってきた。

私の人生で彼も含め子供達とはアト何時間一緒に過ごせるのだろうか?

別府と言えば温泉、でも地獄めぐりには行った事がない。

地獄めぐりの位置する別府市鉄輪・亀川の一帯は千年以上前より噴気・熱泥・熱湯などがすざましい勢いで噴出していた場所だと「豊後風土記」にも記載されており、近寄る事もできない忌み嫌われた土地だったらしい。

それがまるで仏典に描かれた地獄絵のような事から、里人はこの地域を『地獄』と呼ぶようになった。

今でも鉄輪では熱泉噴出口を”地獄”と呼んでいる。

ここに日本で初めてバスガイドを添乗させた観光バスを走らせ、海地獄や血の池地獄などを見せてまわる地獄めぐりを確立させたのが別府観光の礎となった油屋熊八だった。

その後『山は富士・ 海は瀬戸内・ 湯は別府』という標語で別府をPRした事により魅力ある観光地として一躍脚光を浴びるようになった。

↓ それぞれに特色や形態が異なる七つの地獄めぐり

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上の地図で左上の鬼石坊主地獄よりスタートした。

↓ 鬼石坊主地獄、噴出口の温度は約 98℃

灰色の熱泥が大小の球状をなし沸騰するさまが坊主頭に似ており、鬼石という地名に由来して鬼石坊主地獄と命名された。

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■ 鬼石坊主地獄の由来

鬼石坊主地獄の歴史は古く、文献に表れたのは天平5年(733年)頃書かれた『豊後風土記』の玖倍理湯の条に「口の径、丈餘、湯の色黒く、泥常に流れず」と記載されている。

また元禄7年(1694年)にこの地を訪れた貝原益軒は「豊国紀行」に「円内坊地獄とて熱湯あり泥土なり」と記し、

寛政7年(1795年)には脇欄室が「函海魚談」で「泥を躍し、湯を起こし」とも述べている。

このように形容された当時の地獄は田畑の所々に点在していたが、熱泥により稲が育たず人々の暮らしもできない正に不毛の地獄の土地。

しかしその奇異なる自然現象は逆に人々の注目を集め、見物客が畦道を歩いて廻り始めたのが「地獄見物」の始まりと言われる。

日露戦争以降その人気に拍車がかかり、明治43年(1910年)に日本では初めて入場料(2銭)を取る「地獄見物」が「海地獄」から始まった。

その後「血の池地獄」「坊主地獄」「八幡地獄」「紺屋地獄」とメニューを加え当時最大10カ所まで発展、

その中で「新坊主地獄」と呼ばれていた鬼石坊主地獄には、粘土質の泥中に湯玉が次々と湧き上がる「熱泥地獄」と噴気を勢い良く噴き上げる「間欠泉」の二種類があった。

↓ 鬼の高鼾 

昔々 鶴見おろしの寒さに震え上がった鬼達が石布団の上で高いびきをかいてうたた寝をしていたとか。

噴出温度:100℃、蒸気量:2,530 kg/H、熱量:1Kw電球で1,870個分というからすごい!

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次は海地獄へ。

宇和島城

宇和島城へ行ってきた。

この城は慶長元年~6年(1596~1601年)築城の名手と言われた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へ生まれ変わったお城。

当時は大半が海に面する地形を巧みに生かした縄張りだったが、石垣や天守,櫓は元和元年(1615年)に入部した伊達家により修築された。

しかし基本的な城構えは高虎時代のものが踏襲されている。

現在 堀はすべて埋め立てられ、三の丸はじめ総郭部分の約28万㎡は失われたが本丸・二の丸等の郭を含む約10万㎡の城山は”国史跡”に、そして現存する12天守のひとつは国の重要文化財に、そして南側登城口城門の上り立ち門は市の指定文化財に指定されている。

↓ 城内地図

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↓ 藩老・桑折(こおり)氏 武家屋敷門より入る(地図で上)

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この門は戦後の復興事業に伴う道路拡張で撤去せざるを得なくなり、昭和27年にここに移転された。

築年代は不詳、元禄16年(1703年)以後の屋敷替えとなった際に、改造されたとも推測されている。

もともと桁行は 35mだったが、移転時に門番等の居住空間であった左室を撤去し 15mとなった。

宇和島城下で唯一現存する武家屋敷として貴重で昭和38年に市の文化財に指定されている。

↓ 城内へ

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↓ 天守へ出た

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現在の天守は宇和島伊達家2代目当主・宗利が寛文年間(1661~1673年)の城郭全体の大改修にあわせ出来たもの。

高虎時代の望楼型天守を当時最新の三重三階総塗籠式・層塔型にした。

↓ 左が望楼型天守、右が現在の天守で層塔型天守


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各階にある装飾性の高い飾り破風や懸魚、いずれの面も左右対称となるよう配置された武者窓、

またその上下に廻されている長押などから太平の世を象徴するものとして評される。

それとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ非常に格式を重んじた造りになっている。

↓ 天守内部

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↓ 天守内にあった墨絵屏風

松山市生まれの墨絵アーティスト・茂本ヒデキチ氏の作品、迫力満点!

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↓ 天守からの眺望

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↓ 宇和島城の井戸

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↑  この井戸は現在 城山に残る三つの井戸のうち最も重要視されたもの。

ここを井戸丸といい井戸丸御門・井戸丸矢倉などがあって有事の時のため厳重に管理されていた。

井戸の直径:2.4m、周囲:8.5m、深さ:約11m。

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宇和島市は仙台の伊達家と区別して”宇和島伊達” 十万石の城下町と言われる。

宇和島伊達家は伊達秀宗を藩祖とする大名家。

秀宗は独眼竜政宗と呼ばれた伊達政宗と側室・新造の方との間に生まれた長男で、幼名を兵五郎といい家督後継者として育てられるが、わずか4歳で秀吉の人質として差し出された。

しかし人質とは言え、茶々の長男・秀頼の遊び相手として大切に育てられた。

6歳の元服時に秀吉の一字を拝領し『秀宗』と名乗る。

秀吉没後、政宗は徳川に組したためその息子の秀宗は関ケ原合戦前に監禁されたが、徳川方の勝利で危うく難を逃れた。

その後 慶長7年9月(1602年)政宗は12歳の秀宗を徳川家の人質にした。

慶長19年(1614年)11月に起こった大阪冬の陣では政宗・秀宗父子が1万人の兵をひきいて徳川に参戦、その功により幕府直轄の宇和郡10万石が秀宗に与えられた。

徳川秀忠は伊達秀宗を国持大名格とし、慶長20年(1615年)3月18日 秀宗25歳の時宇和島城に入城、これをもって宇和島伊達家が誕生した。

将軍家より10万石が与えられたため宇和島伊達家は仙台家の分家ではなく、総家と支家という血縁のつながりで明治を迎えるまで9代にわたり宇和島を修めた。

ちなみに仙台伊達家では政宗の正室の子・忠宗が後継者にに決まり仙台伊達家を継いだ。

10番札所 切幡寺

■ 場所 徳島県阿波市市場町切幡字観音129

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■ 開基:弘法大師

■ 本尊:千手観音

↓ 入口

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↓ 山門

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■ 由来

弘仁年間、弘法大師が四国を巡業中この山麓で機織りの信心深い乙女から七日間の施しを受け、お別れの日に大師が布を乞うたところ織っていた布を惜しげもなく切って差し出したという故事から”切幡寺”の名がついた。

大師はこの乙女の信心深さにうたれ、彼女の願いどおり千手観音の像を刻み、時の天皇・嵯峨天皇に奏請して本堂を経て、この像を安置した。

その時、乙女の願いにより得度させ(仏門に入る事)灌頂を授けたところ、乙女は千手観音の姿になったといわれ、大師が刻んだ千手観音像とともに女即身成仏の乙女が秘仏として安置された。

それで寺号とともに山号を得度灌頂院と院号を称している。

本堂より一段高い北方の山腹に建つ大塔は、徳川二代将軍・秀忠が堺に建立したものを明治6年ここに移転した、国指定重要文化財。

それがこれ ↓

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この大塔は家康の勧めにより豊臣秀頼(茶々の第二子)が秀吉の増進菩提のため慶長12年(1607年)大阪・住吉大社神宮寺に建立したもの。

明治初頭この寺が神仏判然令により廃寺となったため明治6年(1874年)に当山第45世住職・天祐上人がこの塔を買い受け解体移築したが天祐上人の時代には初重部のみ仕上がり、続いて智堪上人が二重部を仕上げ完成に十年を費やした。

この塔の特徴は五間四面にして初重と二重との間が方形をなす。

今日この形式の遺構は本邦唯一であり国指定重要文化財たる所以。高さは24.168mある。

嬉しかった事

今日少し嬉しかった事があったのでご紹介。

マクドナルドのコーヒが美味しくて、通りかかった時には必ず寄る。

宇多津の浜街道沿いを今日通った時も入った。休日とて中は老若男女でほぼ満席。

相席で飲み始めたがどうも落ち着かないので、そのままカップを持ち帰ることにした。

外に出ると中高生と思われる若者が地べたに座ってたむろしていた。

その中のひとりがスマホで友達に電話しているのが聞こえた。

『お~い! 女はできたか~・・・』云々。近頃の若い奴は! と思いながら車に。

車を発進させたとたん、ガリガリと異音がした。何?なに?

車を降りてみると、何と水を入れて幟を立てるプラスチック容器が車の下に潜り込んでいるではないか!

どうも幟がなかったので、土台の容器があるとは思わず前進したのが原因。

さて車を降りて引っ張りだそうにも出てこない。

こうなったら容器があるまま強引に前進かバックしたら容器を乗り越えられるか? 

やってみた。

出てこない。困った~と途方にくれかけた時、後ろから誰か来た。

見ると先ほどたむろしていた若者ではないか。

どうかしました?と聞かれた。

実はカレコレしかじか・・・と。

そして車の下を覗き込み、数人で容器を引っ張り出してくれた。

いやぁ~助かりました。ありがとうございました。ありがとうございました。

と何べんもお礼を言った。

さっきまで、こいつらは・・・とバカにしていた若者から助けられた。

「気をつけて帰って下さいね」とまで言われた。

私、感動!感動! 涙!涙!

日本の将来は明るい・・・としみじみ思った。

日本の立ち位置

中国はコロナで、韓国はムンジェイン大統領と距離をおきたい。

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今の政権は ↓

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少食のすすめ By 豊岡倫郎 2020-1-28

1.過食が生活習慣病の元

年末年始に何かと食べ過ぎて、なおかつこの寒い時期には体を動かすことも少なく、体調を悪くしている人も多い事と思う。今年はひとつ何か体に良いことをと、気持ち新たにしている方にお勧めしたいのがのが、食べ過ぎない事です。

2.ひそかなブームとなっている少食健康法

体験したことのない人には、実感が湧かないし、理解するのも困難かもしれないが、一度少食を実行してみると、その効果と爽快さに身も心も生きる喜びが溢れ出て来る。その効能とは、

  • 自然治癒力が高まる。
  • 無病、長寿になる。
  • 便通が良くなり、宿便も排泄される。
  • 頭脳明晰となる。
  • 睡眠時間が短くなる。
  • 体が疲れず、よく働ける。
  • 長寿遺伝子がオンになり、体質改善され、脳の活動にブドウ糖だけでなく、脂肪やケトン体もエネルギー源として使われる。
  • 肌がきれいになる。
  • 食費の節約になる。
  • 食品添加物や農薬の口から入る量が減り、その害から身を守る。
  • 食糧、燃料費、調理時間の節約になる。

3.体に備わっているホメオスタシスを狂わすものとは

ホメオスタシスとは恒常性維持機能と訳されている言葉で、人の体には内外の異常に対して、本能的に対処して生命を維持する働きが備わっていることを言う。ところが現代の我々の生活習慣の中には、この働きを狂わすような要素として、腸内環境、自律神経、免疫、血液循環の四つがある。

これら四つの要素に一番大きな影響を及ぼすものは、食習慣である。昔から「腹八分に病なし」という言葉が有るように、健康の根源は食生活にある。

4.少食を実践している人達

皆さんがご存知の人達を列挙すると、ビートたけし、為末大、木村多江、タモリ、水谷豊、Gackt、千葉真一、京本政樹、船瀬俊介、榎本孝明氏などがいる。

特筆すべきは森美智代さんが実践している少食生活である。森さんは1962生まれで、現在は八尾市で鍼灸院を開いているが、ここ20年間も毎日150ccの青汁と少量のサプリメントだけの食事で元気に活躍している。若い頃難病の脊髄小脳変性症を患ったが、当時八尾市で開業していた甲田光雄先生の指導の下に、西式甲田療法を実行して、5年かけて見事に克服したのである。その闘病生活の詳細は、森美智代著「食べない生き方」サンマーク出版の本に書かれている。

5.断食のルーツ

断食は昔から宗教の修行として始まった。キリスト教、イスラム教、インドのバラモン教でも行われてきた。日本でも今から1200年前の平安時代頃から密教や修験道の修行として断食が行われていた。仏教のお寺でも行われていて、千葉県成田山新勝寺で江戸時代に新井白石、松平定信、二宮尊徳、東京帝国大学医学部教授の大沢教授、大正になり小説家の村井弦斎、法学者の今井嘉幸、国立栄養研究所の高比良英雄博士とそこの研究員達が断食をしている。昭和に入って、大阪医科大学の大橋博士、東北大学の久島教授などが、断食を体験、研究している。近年は大阪大学医学部を卒業して開業医として西式甲田療法を確立した甲田光雄博士、現役の医師では石原結實博士が断食に関する本を何冊も出版している。

6.少食には半日断食がおすすめ

前述の甲田光雄博士は開業以来50数年にわたり、二万人以上の患者さんに少食、断食療法を指導して、その成果を「奇跡が起こる半日断食」マキノ出版発行、という本にまとめている。断食について、これを機会に関心を持たれた人はこの本を読まれると、断食に関する全てのことが判りやすく理解できる。生涯に一度はこれらの本を読んで、健康の何たるかを知って、体質改善するのも無駄ではない筈。

7.少食で元気な禅僧

東京のある総合病院の医師が静岡県三島市の竜沢寺の禅僧達の摂取している食事内容を調査したことがある。それによると、禅僧が食べた一日平均の総摂取カロリーは1436カロリーで、タンパク質46g、カルシュウム281mg、ビタミンC24mgなどであった。一方一日の総消費エネルギーは2204カロリーだった。摂取カロリーから消費カロリーを引くと、マイナス768カロリーとなった。

これでは一か月に体重が6キロづつ減少してゆき、一年では72キロ減少する計算になり、禅僧の体重はゼロになって、死んでしまう計算になる。ところが実態は、禅僧達の体格は立派で、心身ともに健康で、病気ひとつせずに、修業に励んでいる。現代栄養学では説明できないのである。人間の体は歴史的にも過食に弱く、飢餓には強い作りになっているから、すぐ適応出来る。

8.まとめ

1)テレビではやれグルメだ、スイーツだのと放映されている。更に大食いを自慢にする番組  まであるのは、如何なものか。放送局の品位が問われる。

2)政府や報道機関が、人生百年時代だと囃し立てているが、良識ある医師たちは、日本の平均寿命はこれからだんだん低下してゆくと予言している。今の若い子供達がとても80歳まで生き永らえるとは思えない。皆さんはどう思いますか。

3)アメリカではここ三年間男女合わせての平均寿命が年々低下して、78歳に落ちた。因みに日本人の平均寿命は84歳である。

4)戦後欧米の高カロリー、高栄養主義に洗脳され、学校給食に馴らされて育った若い親達は  育ち盛りのお子さん達に、焼き肉やハンバーグ、とりの空揚げ、卵、牛乳など濃厚な欧米食を食べさせ、おやつや夜食に甘いお菓子や飲み物を与えて、大人達は酒やタバコの過飲、過食はとても健全な食生活とは思えない。自然界の摂理、体の摂理を無視していないだろうか。

5)我々は毎日の食べ物から命を戴いているのだから、それに感謝しなければいけないし、暴飲暴食をして体をイヂメてはいけない。体の悲鳴に耳を傾けられないような傲慢な態度を改めない限り、生活習慣病は減らないだろう。それには先ず心の宿便を取り、健全な健康倫理感を確立することが肝要となろう。 

おわり

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