地獄めぐり(鬼石坊主地獄)
次男と一緒に別府へ行ってきた。
私の人生で彼も含め子供達とはアト何時間一緒に過ごせるのだろうか?
別府と言えば温泉、でも地獄めぐりには行った事がない。
地獄めぐりの位置する別府市鉄輪・亀川の一帯は千年以上前より噴気・熱泥・熱湯などがすざましい勢いで噴出していた場所だと「豊後風土記」にも記載されており、近寄る事もできない忌み嫌われた土地だったらしい。
それがまるで仏典に描かれた地獄絵のような事から、里人はこの地域を『地獄』と呼ぶようになった。
今でも鉄輪では熱泉噴出口を”地獄”と呼んでいる。
ここに日本で初めてバスガイドを添乗させた観光バスを走らせ、海地獄や血の池地獄などを見せてまわる地獄めぐりを確立させたのが別府観光の礎となった油屋熊八だった。
その後『山は富士・ 海は瀬戸内・ 湯は別府』という標語で別府をPRした事により魅力ある観光地として一躍脚光を浴びるようになった。
↓ それぞれに特色や形態が異なる七つの地獄めぐり
上の地図で左上の鬼石坊主地獄よりスタートした。
↓ 鬼石坊主地獄、噴出口の温度は約 98℃
灰色の熱泥が大小の球状をなし沸騰するさまが坊主頭に似ており、鬼石という地名に由来して鬼石坊主地獄と命名された。
■ 鬼石坊主地獄の由来
鬼石坊主地獄の歴史は古く、文献に表れたのは天平5年(733年)頃書かれた『豊後風土記』の玖倍理湯の条に「口の径、丈餘、湯の色黒く、泥常に流れず」と記載されている。
また元禄7年(1694年)にこの地を訪れた貝原益軒は「豊国紀行」に「円内坊地獄とて熱湯あり泥土なり」と記し、
寛政7年(1795年)には脇欄室が「函海魚談」で「泥を躍し、湯を起こし」とも述べている。
このように形容された当時の地獄は田畑の所々に点在していたが、熱泥により稲が育たず人々の暮らしもできない正に不毛の地獄の土地。
しかしその奇異なる自然現象は逆に人々の注目を集め、見物客が畦道を歩いて廻り始めたのが「地獄見物」の始まりと言われる。
日露戦争以降その人気に拍車がかかり、明治43年(1910年)に日本では初めて入場料(2銭)を取る「地獄見物」が「海地獄」から始まった。
その後「血の池地獄」「坊主地獄」「八幡地獄」「紺屋地獄」とメニューを加え当時最大10カ所まで発展、
その中で「新坊主地獄」と呼ばれていた鬼石坊主地獄には、粘土質の泥中に湯玉が次々と湧き上がる「熱泥地獄」と噴気を勢い良く噴き上げる「間欠泉」の二種類があった。
↓ 鬼の高鼾
昔々 鶴見おろしの寒さに震え上がった鬼達が石布団の上で高いびきをかいてうたた寝をしていたとか。
噴出温度:100℃、蒸気量:2,530 kg/H、熱量:1Kw電球で1,870個分というからすごい!
次は海地獄へ。
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