宇和島城
宇和島城へ行ってきた。
この城は慶長元年~6年(1596~1601年)築城の名手と言われた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へ生まれ変わったお城。
当時は大半が海に面する地形を巧みに生かした縄張りだったが、石垣や天守,櫓は元和元年(1615年)に入部した伊達家により修築された。
しかし基本的な城構えは高虎時代のものが踏襲されている。
現在 堀はすべて埋め立てられ、三の丸はじめ総郭部分の約28万㎡は失われたが本丸・二の丸等の郭を含む約10万㎡の城山は”国史跡”に、そして現存する12天守のひとつは国の重要文化財に、そして南側登城口城門の上り立ち門は市の指定文化財に指定されている。
↓ 城内地図
この門は戦後の復興事業に伴う道路拡張で撤去せざるを得なくなり、昭和27年にここに移転された。
築年代は不詳、元禄16年(1703年)以後の屋敷替えとなった際に、改造されたとも推測されている。
もともと桁行は 35mだったが、移転時に門番等の居住空間であった左室を撤去し 15mとなった。
宇和島城下で唯一現存する武家屋敷として貴重で昭和38年に市の文化財に指定されている。
↓ 城内へ
↓ 天守へ出た
現在の天守は宇和島伊達家2代目当主・宗利が寛文年間(1661~1673年)の城郭全体の大改修にあわせ出来たもの。
高虎時代の望楼型天守を当時最新の三重三階総塗籠式・層塔型にした。
↓ 左が望楼型天守、右が現在の天守で層塔型天守
各階にある装飾性の高い飾り破風や懸魚、いずれの面も左右対称となるよう配置された武者窓、
またその上下に廻されている長押などから太平の世を象徴するものとして評される。
それとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ非常に格式を重んじた造りになっている。
↓ 天守内部
↓ 天守内にあった墨絵屏風
松山市生まれの墨絵アーティスト・茂本ヒデキチ氏の作品、迫力満点!
↓ 天守からの眺望
↓ 宇和島城の井戸
↑ この井戸は現在 城山に残る三つの井戸のうち最も重要視されたもの。
ここを井戸丸といい井戸丸御門・井戸丸矢倉などがあって有事の時のため厳重に管理されていた。
井戸の直径:2.4m、周囲:8.5m、深さ:約11m。
宇和島市は仙台の伊達家と区別して”宇和島伊達” 十万石の城下町と言われる。
宇和島伊達家は伊達秀宗を藩祖とする大名家。
秀宗は独眼竜政宗と呼ばれた伊達政宗と側室・新造の方との間に生まれた長男で、幼名を兵五郎といい家督後継者として育てられるが、わずか4歳で秀吉の人質として差し出された。
しかし人質とは言え、茶々の長男・秀頼の遊び相手として大切に育てられた。
6歳の元服時に秀吉の一字を拝領し『秀宗』と名乗る。
秀吉没後、政宗は徳川に組したためその息子の秀宗は関ケ原合戦前に監禁されたが、徳川方の勝利で危うく難を逃れた。
その後 慶長7年9月(1602年)政宗は12歳の秀宗を徳川家の人質にした。
慶長19年(1614年)11月に起こった大阪冬の陣では政宗・秀宗父子が1万人の兵をひきいて徳川に参戦、その功により幕府直轄の宇和郡10万石が秀宗に与えられた。
徳川秀忠は伊達秀宗を国持大名格とし、慶長20年(1615年)3月18日 秀宗25歳の時宇和島城に入城、これをもって宇和島伊達家が誕生した。
将軍家より10万石が与えられたため宇和島伊達家は仙台家の分家ではなく、総家と支家という血縁のつながりで明治を迎えるまで9代にわたり宇和島を修めた。
ちなみに仙台伊達家では政宗の正室の子・忠宗が後継者にに決まり仙台伊達家を継いだ。
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