地獄めぐり(鬼山地獄)
鬼山地獄はこの地が石垣荘鉄輪村鬼山という地名に由来する。
別名「ワニ地獄」と言われるのは、大正11年 日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を始め、現在 クロコダイル科,アリゲーター科のワニ約80頭が園内で飼育されているのが由来。
↓ 入口
この園内にあるマレーシア・サラワク州の伝統家屋を再現した建物は、地獄の噴気成分のナトリウムによる腐食に強いボルネオ鉄木を使用して建てられたもので、日本で初めてマレーシア政府から輸出許可を取ったもの。
↓ その建物がこちら「マレーシアハウス」
↓ 中に入ると湯気が出ている池が目の前に。
地下187mから自然に湧出る沸騰泉で 99.1℃の高温泉、涌出量は1時間8トン、一日約200トン。
ちなみに別府市全体では源泉数約2,800カ所、一日約10万トン。
【 鬼山地獄の生い立ち 】
■ 明治期:
古来地元では猛烈な熱湯,噴気から農作物への被害が出ていた所を地獄と呼んで、時の地主もその管理には手を焼いていた。
たまに田畑の畦道を歩いてそれを見に来る見物人もいたが、見料は特に取っていなかった。
明治43年その地獄のひとつを「宇都宮 則綱」が借り受け、ひとり 5銭の観覧料を取って観光施設として整備・開業した。
それが地獄めぐり観光の始まりで宇都宮 則綱21歳の時。
その後 彼は周辺の地主と手を組み エンマ会(現在の地獄組合の前身)をつくって宣伝活動を開始した。
■ 大正期:
則綱は 油屋 熊八,梅田 凡平,原 北陽らと別府宣伝協会を設立し、関西汽船の前身である大阪商船に頼み 大阪 ⇔ 別府 航路の増便を具申。
結果「紫丸」「屋島丸」などこれまでより大きな客船の導入と増便が実現した。
また大分県に地獄循環道路を提案し、大正10年に県道が完成して「別府地獄観光」の利便性が向上した。
更に則綱は観光施設の多彩化を図るため温泉熱利用の「ワニ園」を提案、賛同を得て大正11年には20匹のワニを借り受け、豊後國志の石垣荘鉄輪村鬼山の地名に由来して「鬼山地獄」と名付けた設備をつくり ワニの飼育を開始した。
日本で初めて温泉熱を利用した養鰐株式会社となった。
当時はアリゲーター種のみだったがシンガポールからクロコダイル種の輸入も行った。
大正14年 梅田 凡平ら宣伝隊が富士山山頂に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」の標識を立てたという。
■ 昭和期
昭和3年に油井 熊八が「亀の井自動車」を設立し、大型バスにて地獄八カ所と別府市内をめぐる『地獄めぐり』コースを設定し、
全国に先駆けて女性バスガイドを登用した観光が別府観光の 更なる飛躍につながり、来客数は急増した。
■ 平成期
第一回アジア九州地域交流サミットが平成6年に開催された時、マレーシアのマハティール首相が鬼山地獄に来園し、飼育ワニでは長寿大きともに世界一の「シャムワニ」と「マレーシアハウス」を観覧。
国際的なワシントン条約で輸入規制が強まる中、平成9年,27年,29年と卵の孵化に成功し、別府生まれのイリエワニが温泉熱で育っている。
↓ イリエワニ
ワニは熱帯に住む動物で寒さに弱いため冬場は池に温泉を入れ30度に温めている。
地獄の立役者・宇都宮 則綱
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