中城城跡
2000年12月、世界遺産登録。正確には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして世界遺産に登録された。
この城跡がどんなところなのか調べてみた。
14世紀後半頃に築かれた城で、かって貿易が行われた屋宜の港から2Kmほど離れた丘陵にある。
中城村と北中城村にまたがり東北と南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの石灰岩丘陵上に立地する山城。
南東側は15m以上の切り立った断崖、北西側は勾配のきつい傾斜面で城内に入るには、正門や裏門に面している東北と南西の丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地だという。
城は1~3の郭と北南西の郭の6つの郭からなり、琉球石灰岩で城壁が積まれ、自然の岩石と地形的条件を巧みに生かしながら美しい曲線で構成されている。
城内には霊域や御嶽(うたき)などの八つの拝所があり、地元民の信仰の場ともなっている。
歴史を調べると、 14世紀後半頃に中城 按司(ナカグスクアジ)が 一の郭、二の郭、西の郭、南の郭の主な部分を築いた。
1440年に築城家の名手と言われた護佐丸(ゴザマル)により、三の郭と北の郭が増築されて現在の城の形が完成。
座喜味(ザキミ)城主であった護佐丸は国王からの命により、首里王府に対抗し王権を狙う勝連城主の阿麻和利を牽制するためにこの城に 移り住んだが、逆に阿麻和利に攻め込まれ、護佐丸は自害した。
↓ 中城城跡の場所はこちら
↓ 入口案内
↓ チケット売り場
世界遺産にしてはプレハブで工事の現場事務所みたい。
↓ 城跡案内図
↑ 案内図の右側が正門
それを知らずチケット売り場からすぐの前の裏門側(案内図の左側)から入ってしまった。
この城跡の広さは11万平方メートルもある。
↓ 城跡の模型(模型の上方が正門)
↓ 裏門側から入ると世界遺産登録の石碑もあって、こちらが正門と思うのは当然???
↓ 裏門前に広がる広場、ゴルフ場のコースと見紛う。
↓ 右が裏門、左手が三の郭の城壁
↓ 裏門
↓ 三の郭への階段
↓ 三の廓
↓ 正門
↓ 南の郭と拝所「御當蔵火神(ウトウクラヒヌカン)」
↓ 一の郭の城壁と城門
↓ 正殿跡
「一の郭正殿跡の調査概要」と書かれた看板に書かれた内容をご紹介。
現在地は中城の中心にあり、先中城按司や護佐丸などの城主が政を行っていた建物があったと考えられる。
護佐丸亡後は中城が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、17世紀前半にはこの場所に番所が置かれ、明治期には琉球の日本併合と共に番所は役場と名を改め、1945年4月に沖縄戦で焼失するまで、ここは中城の行政の中心地として長い間使用されてきた。
この場所に建っていた建物の記録としては番所役場についての記録が僅かに残っているだけで、それ以前のものについては図面や文献は残っておらず、どんな建物かは不明。この謎を解明するため中城村教育委員会では平成21年から24年の期間に約480平方メートルの発掘調査を実施。
その結果、石積みで城郭が築かれるより前の13世紀後半から役場のあった近代にかけて建物の礎石や柱穴,各種石組遺構など700基程の遺構を検出できたが残念ながら基墳築造後に何度かの造成が行われた上かなりの回数建て替えられたために各遺構が複雑に入り組んでおり現場では各時期の建物や構造や間取りを明確に把握することはできなかった。今後は出土した遺物や測量図を基に各遺構を整理する。
↓ 二の郭
↓ 出口近くの木がドラゴンに見える。
« 七滝 | トップページ | 2020年9月 健康会館スクール予定 »
「旅に出よ」カテゴリの記事
- 奄美空港(2023.05.02)
- あやまる岬(2023.05.01)
- ハートロック(2023.04.25)
- 奄美大島 その2 ( 加計呂麻島 )(2023.04.19)
- ハブセンター(2023.04.20)
コメント