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作者:ヨーリス・キヴィッツ(オランダ)
第二次世界大戦後、ソ連の影響で社会主義国となったチェコスロヴァキア。
1989年のベルリンの壁崩壊を受けチェコスロヴァキアでも政権交代を訴えるデモが活性化した。
その勢いに押され共産党上層部は辞任し社会主義の時代は終わった。
この革命は血を流さず穏やかに遂げられたことからビロード革命と呼ばれている。
1968年のプラハの春の失敗を乗り越えビロード革命の指導者ハヴェルを大統領とする民主主義国に生まれ変わった。
その新しい時代の象徴としてプラハにダンシングハウスが誕生、当初踊る男女のような奇抜な建築デザインゆえに批判も受けたが今では街の名所のひとつになっている。
鳥取城の築城時期については諸説あるがこの城が因幡支配の拠点となったのは武田 高信の時期。
そして戦国時代の16世紀中頃、因幡国の守護大名・山名 豊国は本拠地をここ久松山(263m)に移転した。
この時のお城は「山上の丸」とそこから西にのびる非常に急な尾根を中心に築城された。
それを裏付ける斜面を平らに削った遺構が数多く残されている。
そこに築かれた山城は戦闘用として使われ 通常時の居住は「山下の丸(サンゲノマル)」に置かれた。
↓ 山城(山上の丸)と山下の丸
山名の後、城は毛利氏の傘下となり毛利の最前線の城として羽柴秀吉と壮絶な戦いを繰り広げた。
2度目の城攻めの際、籠城した吉川経家に対し秀吉は圧倒的兵力で包囲網を敷き一切の補給路を断つ「兵糧攻め」を行った。
結果、経家は城で戦った部下や城に避難した民衆の命と引き換えに自刃し城をあけわたした。
この戦いは「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれ、秀吉の天下統一の布石となった。
兵糧攻めの後新しい城主となったのは秀吉の側近・宮部 継潤で、「山下の丸」に石垣や天守を築き鳥取城を一新させ近世城郭の体となさしめた。
従い鳥取城跡は中世の山城的遺構と近世城郭遺構が両存する日本城郭史上でも類の少ない城跡で、学術的にも歴史的にも貴重な城跡として1957年国の史跡に認定された。
その後宮部 継潤の息子・長房は1600年関ヶ原の戦いで西軍についたため東軍の攻撃を受け、開城。
開城後は 池田 長吉に託され、姫路城を築いた兄の池田 輝政とともに両城は西国の豊臣系大名の抑えを担った。
↓ 城跡入口
↓ 門
↓ 下の矢印が門
↑ 山下の丸全体図
↓ 門をくぐると三の丸へ至る階段
↓ 三の丸跡
↓ 二の丸跡
江戸時代の前期、二の丸には藩主が住み家老などが政治を司る藩主の御殿があった。鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三の丸に移され石黒大火(1720年)で焼失、三階櫓は早くに復旧されたが御殿は幕末の弘化3年(1846年)まで再建されませんでした。
二の丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれ1957年国の史跡に指定された後、最初の石垣修復工事が行われた。
↓ 三階櫓跡
三階櫓について
城が鳥取藩32万石の政庁となった元和3年(1617年)からまもなく建てられ、元禄5年(1693年)に山頂の天守が落雷で焼失した後はこの櫓が天守の役割をした。享保5年(1720年)の大火で焼失するも藩を象徴する建物であることから再建された。
↓ 三階櫓跡
↓ 山下の丸の最上階「天球丸跡」
古絵図 ↓ によれば、天球丸には風呂屋敷と呼ばれる門や東側隅に建てられた三層の櫓などがあった。
関ヶ原の戦い後、城主・池田 長吉の姉・天球院がこの三層の櫓 に住んでいたことから、後に天球の丸(天球丸)と呼ばれた。
三層櫓は享保5年(1720年)の大火で焼失したとある。
1990年から2010年にかけ石垣修復工事とそれに伴う調査が行われ、天球丸の構造的な変化の様子が明らかになった。
天球丸は山下の丸の一番高いところ(標高51m)にあり、東側を巨大な竪堀で守った軍事的にも重要な場所で戦国時代末から江戸時代初期頃までは、今の姿と違っていた。
天球丸が今のように広い敷地となったのは鳥取城が鳥取藩32万石の居城として再整備された元和3年(1617年)から後。
もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張されたが、この手法は全国的にも確認例の少ない珍しいもの。
↓ 天球丸跡を支える球状に積み上げられた「巻石垣」
これもここでしか見られない大変珍しい石積みである。
石垣が崩れるのを防止するため・・・と言われている。
鳥取砂丘は 東西16Km,南北2.4Kmにわたる砂丘で観光できる砂丘としては日本一広い。
観光できる・・・と条件が付いているのは、砂丘の広さだけでは青森にある「猿ヶ森砂丘」が3倍も広いらしいが、防衛省の下北試験場(弾道試験場)の敷地になっているため立入禁止。
↓ 入り口
↓ 砂丘地図
その中心部(146.2ヘクタール)が天然記念物として指定されている。
↓ 入り口からの風景、馬の背の向こうに青い海が見える
外国では砂漠を緑化して農作物をつくるプロジェクトが普通だが、ここ鳥取砂丘では緑化を防止し砂漠の維持に努めていると聞く。
外来植物により放っておくとジャンジャン緑化が進むという。
砂丘という観光資源を維持するため、草を除去するボランティアがある。
文献によると、鳥取砂丘では1970年頃から砂丘に本来生えていない外来植物が目立つようになり、砂の移動が減少し美しい風紋や砂簾が見られにくくなったり、砂丘本来の美しい景観を損ねたりするなど、砂丘の草原化が深刻な問題になりはじめた。
平成3年頃には、砂丘の半分近くが雑草などで緑に覆われるまでになった。
そこで「鳥取砂丘未来会議」という団体を立ち上げ、県民と一緒になって美しい鳥取砂丘を取り戻すため、平成6年から本格的に除草活動を開始した。除草するのは外来植物だけで本来生えている草は残しているらしい。
平成16年度からはボランティアによる除草も始まり、多くの県民が参加している。
↓ 風紋
↓ 若者達がパラグライダーに興じていた。私も乗ってみたい~。
↓ 馬の背
↓ 丘に立つ家族
ユネスコ世界ジオパークに認定されている。
このパークは、山陰海岸国立公園を中心として東は京都府京丹後市経ヶ岬から西は鳥取市の青谷海岸までの東西120Km・南北最大30Kmのエリアにまたがる。
日本列島がアジア大陸の一部だった時代から今日に至るまでの経過を確認できる貴重な地形・地質遺産が見られる所。
ちなみに世界ジオパークは平成27年、世界遺産と同じユネスコの正式事業として認められた。
浦富海岸から遊覧船が出ていたので乗り込んだ。
↓ 遊覧船
↓ 周遊コース
↓ 出港してすぐ奇岩が見えてきた
↓ 観光パンフレットに必ず載っている「千貫松島」
花崗岩の島で、トンネルのように穴が貫通している”海食洞門”。
周囲50m,高さ10mの島の頂には、写真のように1本の松が生えていて、浦富海岸を代表する奇岩のひとつ。
旧鳥取藩主の池田綱清公がここで舟遊びをした時、この島のあまりの美しさに「わが庭にこの岩つきの松を移すことができた者に、禄千貫を与えよう。」と言ったことから「千貫松」と呼ぶようになったと言う。
↓ ジオコムス
ジオパークエリアをこの超小型電気自動車(EV)に乗って周遊できるレンタカー。
■ プラハ城;作者:レオナルド・ウゴリニ(イタリア)
■ ヴァルタヴァ川の風景; 作者:スー・マクグリュー(アメリカ)
↓ プラハ城
プラハ城は世界で最も大きく古い城と云われている。
伝説によると870年頃リブシェの予言に基づきヴァルタヴァ川沿いに建てられた。創建後プラハ城は整備が進みカレル1世の治世で飛躍的に発展する。
その後度重なる戦争でも大きな損傷を受けず増改築の中で建設されたゴシック様式やロココ様式といった中世以降の多彩な建築様式を今に伝えている。
またこの城はチェコで起こった歴史的な舞台ともなった。
こうした建築の特殊性やその歴史から城下町を含めた城全体が1992年世界遺産に登録された。
↑ カレル橋とヴルタヴァ川の風景
プラハ城と旧市街を結ぶ世界遺産の石橋カレル橋。
市街地の区画整理や大学の設置など現在のプラハの基礎をつくったカレル1世の命令で14世紀に建造された。
両岸には関所の役割を担っていた橋塔が橋と同じゴシック様式で建てられ、左右の欄干には聖・ヤン・ネポムスキーフランシスコ・ザビエルなど30体のキリスト教の聖人像が並んでいる。
またこの橋が架けられているヴァルタヴァ川はチェコ人にとって馴染み深い川でチェコ出身の音楽家スメタナも交響曲「わが祖国」の中にテーマとして取り上げた。
カレル橋とヴァルタヴァ川の作り出すこの風景はチェコ人の心の故郷として深く愛されている。
お盆休みに家族で奥大山休暇村へ行ってきた。
長男が東京、次男が横浜、症状が出ないコロナ感染者もいると聞いて少々心配しながら・・・。
↓ この休暇村は大山隠岐国立公園内の鏡ヶ成(カガミガナル)の中に位置する。
鏡ヶ成は烏ヶ山(1448m),象山(1085m),擬宝珠山(1110m)の3っの山に囲まれた盆地で冬はスキー、夏は避暑とキャンプで賑あう。。
↓ 白矢印が休暇村
鏡ヶ成の周囲は溶岩円頂丘である烏ヶ山付近を噴出源とする大量の火砕流や火山灰が谷を埋めて山を覆ったためになだらかな地形となった。
鏡ヶ成の周辺に降った雨や雪は盆地の底部に集まって湿原をつくりだし多くの湿原植物を育むという。
↓ 休暇村
↓ 湿原 遊歩道が整備されていてぐるっと回れる
↓ キャンプ場、多くのキャンプが張られていた。
↓ キャンプセンター
休暇村についておさらい。
国立公園や国定公園内の景色や環境の良いところに、滞在型のバカンスを楽しめるように設置されたレクリエーション・保養施設。
スキー,テニス,海水浴などのスポーツや自然歩道の散策,合宿、研修をしたりするのに利用されている。
よく知られているのは国民休暇村で全国に37ヶ所あり、一般財団法人休暇村協会が運営している。
協会のHPの目的に以下の記載がある。
本協会は国立公園,国定公園の利用及び保健休養のための宿泊施設を核とした休暇村を、低廉な料金で一般の利用に供するとともに、自然とのふれあい及び保健休養に資するその他の事業を行うことにより、人と自然が共生する地域の振興及び健康で文化的な生活の増進に寄与することを目的とする。
休暇村と良く勘違いする施設に国民宿舎がある。
国民宿舎には地方公共団体が運営する公営と一般社団法人国民宿舎協会が認定する一般旅館や宿坊,山小屋がある。
まぁ~似たようなものか?
私のブログにコメントは滅多に付かない。
もともと暇つぶしで書いているブログだから、読んでくれる人はいないと思っている。
ところがたまにコメントが付く時がある。
そんな時はコメント内容によっては嬉しい。
2020年9月29日に近藤さんと言う人からコメントを頂いたので紹介する。
コメントのブログはサイパンのテニアン島へ行った時のもので随分昔。
2008年7月16日投稿の「南洋興発」である。
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ブログ「Nory前田が出しゃば?る」のエントリー「南洋興発」に新しいコメントがつきました。
http://nhkkt-maeda.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_20c6.html
貴ブログに掲載の砂糖王公園保存機関車の写真を提供頂きたいと存じます。
私は、機関車の研究で著名だった故金田茂裕氏の後継者で、同氏の『O&Kの機関車』という本の
改訂版の発行を、ご遺族のご了解を得て、準備中です。
この写真は、O&K(Orenstein und Koppel)製の機関車です。
『改訂版O&Kの機関車』に載せることをご了承頂きたいと存じます。
何か使用の条件があればお知らせ下さい。よろしくお願い致します。
蛇足ですが、私は鉄道友の会より2013年度の「島秀雄記念優秀著作賞」を頂きました。
今までに4冊の本を自費出版しております。
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ちなみに近藤氏が見てくれた私のブログがこちら。
「南洋興発」2008年7月16日
テニアン島へのツアー時、「NKK」って何の略だか分かる?とガイドの声。造船従事者だった私は即座に「日本鋼管」と。
そう言うだろうと待っていたように、「ブー間違い」。ここでは南洋興発と言う戦時中砂糖を製造していた会社を指しまぁ~す。
サイパン島のガラパン砂糖王公園に、社長 松江春次の銅像がある。統治が日本からアメリカに変わった時、米軍はこの日本人像を引き倒そうとした。ところが地元住民の大反対にあって取り止めになった。それほどNKKはサイパンに雇用や経済面で貢献度が高かった企業らしい。
テニアンにも南洋興発の社員が祈った神様への鳥居が残る。
下の写真はサトウキビを工場まで運んだ蒸気機関車。
そう言えばハワイに同じ目的だった機関車が今は観光客を乗せて走っていたっけ。
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分かってはいるが、何にでも興味を示し調べている人がこの世にはいる。
私など、この機関車を見ても戦時中にサトウキビを運搬した、へぇ~って感じだが、鉄道ファンにはそうではないらしい。
機関車の型とか製造年とか製造元とか時代背景とか・・・調べるのが楽しく面白いに違いない。
正に「興味を持たなければこの世に面白い事などあろう筈がない」である。
サイパンには3回ほど行った。
坂出にサイパンの戦いから生還した岡崎さんと言う方がおられる。
彼は戦後ある時期から元いた連隊の戦友と毎年サイパンを訪問し慰霊を行って来たという。
慰霊団は多い時には十数人いたらしいが高齢化で一人抜け二人抜け数が減っていった。
そんな時、岡崎さんから一緒に慰霊に行きませんかのお誘いがあって、柿茶の先代の社長(私の高校時代の友人)はじめ友人らとサイパンへ行った思い出がある。
もう30年以上も続いていたこの慰霊旅も、流石ご高齢により最近やめたらしい。
このブログはその慰霊に同行した時のもの。
ちなみに「O&Kの機関車」で検索 すると下の画像が出てきた。
確かに写真と似ている。
丸亀走友会の黒木さんと二人でしまなみ海道をサイクリングしてきた。
丸亀駅からJRで今治駅へ、駅前でレンタサイクルを借り生口島まで往復 約70Km。
さすが一日では無理で生口島で一泊することにした。
今治駅に降りると目の前にサイクルターミナルがあった。
えらくきれいな建物、調べると今年7月20日にOPENしたばかりという、新しいはずだ。
↓ サイクルコース
自転車を借り、いざ出発! まずは今治駅から来島海峡大橋へと走る、その間6.5Km。
走り出して気付いた、自転車のサドルが狭く尻が痛い!痛い! 何故こんなに巾が狭いの?
後日調べた。
漕ぎやすく、足に引っかからないようサドルを細身(軽量化も兼ねる)にしている。
そもそも、サドルにどっかり座って走るシティサイクルとは乗り方が違うからわざとそうしている。
常に漕いでいるので足と手に体重が分散すると考え、サドルのクッション性も考慮してない・・・とある。
なるほど!常に漕ぐ・・・それはむつかしい、下り坂では必ず座る。それで尻が痛い?
しかし巾の広い自転車はないので仕方ない。
自転車にまたがり、コースを走り出して気づいた。
ご親切に道路に青いサイクリングコースの道標があり、それに沿って走れば迷子になることはない。
それが全コース続いている、ありがたい。
来島海峡大橋へのアクセス道路から今治造船が見えた。造船所の風景は懐かしい。
↓ いよいよ橋の上に出た、来島海峡第三大橋・橋長:1570m。
↓ 橋の上のサイクリングコース、真横を車がビュンビュン走るのではじめは少しビビる。
↓ 第三大橋を渡り切り大島に到着、島の一般道路へ下りる
↓ 降りた所に道の駅があったので、そこで早めの昼食。今治駅前で仕入れた鯛めし弁当を食す。
わざわざ買ってこなくても道の駅に食堂があった。
道の駅を出て海岸沿いを走っていると、さすが来島海峡、川のように流れる光景に出くわした ↓
大島の中の一般道路を走ること10Km強、やっと伯方島への「伯方・大島大橋」の入り口が見えてきた。↓
↓ 伯方・大島大橋(橋長:1165m)
伯方島到着 ↓
伯方島島内のコースは大島で長い距離を走った後で、えらく短かく助かった。
↓ ”開山”の名所案内:山頂の展望台から海道の島々と3っの大橋が一望できるという、次回桜の季節に行ってみたいものだ。
↓ 伯方島から大三島への橋「大三島橋」橋長:328m
↓ 大三島へ下りて橋を仰ぐ
↓ 地図の矢印が大三島橋
↓ いよいよ目的地への最後の橋「多々羅大橋(橋長:1480m)」が見えてきた。
↓ 道の駅「多々羅しまなみ公園」から多々羅大橋を望む。
↓ 橋へのアクセス
↓ 生口島へ降り、耕三寺への道をたどる。
耕三寺を見た後、この日宿泊する「旅館つつ井」に到着
↓ 旅館の窓から見える高根島と高根大橋
目の前に瀬戸田客船ターミナルがあって多くの船が出入りしていた。
1.飽食時代の栄養の偏り
飽食の現代において、偏った食生活によって、ビタミンやミネラルが不足しているために、いろんな病気が発症していると言われ出した。これを機会に我々の日常の食生活において反省し、改善すべきことは何だろうか。
2.体に必要な栄養素とは
体に必要な7大栄養素といえば、炭水化物、脂肪、タンパク質、ビタミン、ミネラル、酵素、食物繊維が食生活には欠かせない。その中でも今まで軽視されがちだったビタミン、ミネラルの重要な働きを再認識して、不足を補い、健康維持に役立てたい。
3.ビタミン、ミネラルとは
ビタミンはエネルギー源や体を作る成分ではないが、体の生理機能を調節してくれる有機化合物のことで、13種類ある。またミネラルは食物の消化、吸収、老廃物の排泄、エネルギー生産などの生命活動を助けている無機質成分のことである。16種類あり、これらのほとんどが体内では作れないので、食べ物から摂取しなければならない。厚労省はこれらの摂取基準量を定めている位重要な栄養素なのである。
我々が一般常識として知っているのは、ビタミンAの不足で夜盲症、ビタミンB1の不足で脚気、ビタミンCの不足で壊血病、カルシュウムの不足で骨粗しょう症、鉄分の不足で貧血などであるが、それ以外のものも皆大切な働きを持っているから、不足させてはいけない。
4.摂取不足が指摘されている主なビタミン、ミネラルの働き
5.ビタミン、ミネラルの複合相乗効果
アメリカのロジャー・ウイリアムス博士は「生命の鎖」の理論を発表している。即ちビタミン、ミネラルは、相互に関連していて鎖のようにバランスよく形成されて、繋がっていないと、健全に生命活動を維持できないとした。
例えば亜鉛はビタミンA、マグネシュウムはビタミンB群、カルシュウムはビタミンC、セレンはビタミンEとの相合作用で効果が出る。
更に「ミネラルバランス説」を唱えたのは、ドイツのリービッヒ博士である。即ちミネラルは身体の中でそれぞれの相互関係によって成り立っていると云う。例えばカリュウムが必要量より不足すれば、他のミネラル量も不足したカリュウム量に合わされてしまうから、各種バランスよく摂らねばならないとした。
今では食生活におけるミネラルバランスの理想比というものがあり、リンとカルシュウムは1対1、カルシュウムとマグネシュウムは2対1、ナトリュウムとカリュウムは1対1、亜鉛と銅は8対1が理想的であるという。
6.ビタミンやミネラルを減らす誤った行為とは
体に良いと思って摂取したビタミンやミネラルを無駄に消耗させたり、効果を減少させることが起きないよう、日常生活で注意すべきことは、例えば。
7.ビタミンやミネラルの接種方法
具体的に各ビタミン、ミネラル毎の摂取方法を説明する紙面が無いので、概略すると。
8.まとめ
1)百年以上も同じ田畑で米や野菜を栽培していると、化学肥料だけでは地力も弱り、栄養価の低下は免れない。叉ハウス栽培や水耕栽培も露地栽培に比べて栄養価は低下していないのか。
2)これを機に自分の食生活で充分にビタミンやミネラルが摂れているのか反省をして、何が不足し、いかにして補うべきかを考えても損はあるまい。ただ注意点は市販の栄養剤などで過剰摂取すると、害になる栄養素もあるので気を付けたい。
3)食べたものが血となり肉となる。毒にもなり薬にもなる。医食同源とはこの事なり。
おわり
耕三寺の敷地内にこんな芸術的な造形があるとは、ほんとビックリポン!
説明看板の文言を転記すると、
この丘は広島県世羅郡世羅町出身の杭谷一東氏(クエタニ イットウ)が1989年より12年の歳月をかけ完成(2000年10月)させた大規模環境造形作品でイタリア産の白大理石を使用している。
一東氏は1969年にイタリアに渡り活躍、数々の賞を受賞している。
彼の作品は家族愛と湧き出る力をテーマにしていて、耕三寺初代住職が母の慈愛に報いんとお寺を建立したことと相通じるところがある。
↓ 案内図
広さ5,000平方メートルにもおよぶ白い大理石のすべては、一東氏のアトリエがあるイタリア・カッラーラで採掘し、コンテナ船で運んできたと言うからすごい。
丘にそびえ立つ大小様々な形をしたモニュメントや広場や道に配する石のひとつひとつと対話し、また周囲の景色の形や色、風雨、光といったあらゆる自然との調和も考えて創造したと記載されている。
ここでは、ただ見て楽しむだけでなく、実際に肌でふれて自然と一体となって遊び、思い思いの想像をふくらませてもらえることが製作者の願いで、言いかえれば ここはすべての生命あるものが参加できる空間、人も動物も虫も草木も。
↓ 入り口から「光明の塔」が見えた。
↑ 仏教護法の十二天より「日天(にってん)」が放つ光(希望)の塔
西に沈む太陽に合掌している様だ。
↓ 天猫
↑ 「月天(がってん)」を望む猫
↓ 未来からの炎
↑ 東南方を護る「火天(かてん)」の炎
↓ 風の四季:西北方を護る「風天(ふうてん)」の屏風
↓ 白獅子の塔(左)と亀玉の舞台(3本の柱がある空間)
↑ 白獅子:南西方を護る「羅刹天(らせつてん)」 が乗る獅子
↑ 亀玉の舞台:西方を護る「水天(すいてん)」が乗る大亀
真っ白な大理石の中にいると、南極の氷の中にいるような錯覚を覚える。
正に作者の意図する「思い思いの想像をふくらませてもらえることが 願い」 そのもの。
感動した。
↓ お城のように見えるのは金剛館、行きたかったが時間切れ
↓ 出口
耕三寺には過去何回か来たことがあるが、前に来てからもう20年以上経っていると後で分かった。
それは境内に「未来心の丘」なるモニュメントができていて、それができたのが20年前と分かったから。
↓ 耕三寺入り口の山門を入ると中門がすぐ目の前に。
耕三寺は特殊鋼管の製造会社を設立した実業家「耕三寺 耕三」が母親の追悼のために建てたお寺と云うからすごい。
大阪四天王寺の伽藍を模範として造られた堂塔は、耕三寺氏独自の発想と装飾が加えられ昭和唯一の寺院建築様式として、耕三寺様式と呼ばれる。
ちなみに「未来心の丘」は広島県出身の彫刻家・杭谷 一東氏が1989年より12年の歳月をかけ、イタリア産の白い大理石を素材に制作した大規模環境造形作品らしい。
↓ 中門から礼拝堂越しに五重塔が見える
↓ 中門から入り口を振り返る
↓ 境内案内地図
↓ 礼拝堂
↓ 五重塔
↑ 五重塔は昭和28年、耕三和上がご母堂の納骨堂としての建立を思い立ち、昭和30年(1955年)12月に完成「大慈母塔」と名付けられた。
↓ 孝養門
この門は、耕三寺参拝の人々が極彩色の堂塔を見て「日光のようだ」とうわさするのを和上が心に留め、昭和28年日光陽明門の原寸復元を発願し約10年をかけて建立された。
このお寺が「西日光」と呼ばれる所以はここから来ている。
↓ 孝養門をくぐると見えてくるのはいよいよ本堂
少し首里城を彷彿とさせる風景ではある。
↓ 本殿側から孝養門を見ると
↓ 千仏洞地獄峡
子供達が小さい時、耕三寺へ連れて行き、ここを見せたのを覚えている。
私自身が子供の頃、地獄絵図を大人に見せられ、悪事を働くと死んだ時にこんな風に鬼達から扱われると恐怖心を植え付けらえた。
地獄絵図は悪事の抑止力になると思い、それを自分の子供にも見せようと、地獄絵図がある耕三寺へ連れて行った。
↓ 入り口
残念ながらこの日はコロナで閉鎖中。
この洞窟、昭和39年(1964年)に完成したもので、鍾乳洞ではなく人工窟だが、富士山の熔岩と浅間山の焼石をコンクリートで固めて造ったという凝ったもの、全長は350m、最深15mに及ぶ。
浄土教の祖・源信和上(恵心僧都)が書いた往生要集を視覚で体感してもらおうと造られた。
洞窟内には往生要集の十界の各場面を描いた彫刻絵と今治市の石彫家・馬越三雄、正八親子作の石仏約一千体を以って構成されている。
↓ 地獄を見て来て地上に出てくる出口には「救世観音大尊像」がそびえ立つ。何とも憎い配慮である。
↑ 奈良法隆寺のご本尊・秘仏救世観音を手本として造顕された。
台座,宝冠を入れると15mの仏さま。昭和36年に着工、40年に完成。
↓ 地獄絵図の一例
こんな絵を見たら悪事を働こうなんて気にならない。
夏休み、家族と奥大山休暇村で過ごした後、次男と鳥取県へ旅した。
鳥取への道筋に大山寺と大神山神社があったので寄ってみた・
↓ 大山寺山門
↓ 大山寺本堂、ご本尊は地蔵菩薩、度重なる火災から昭和26年に再建されたもの。
このお寺の沿革
奈良時代・養老2年(718年)出雲の国玉造りの人「依道」により開山。
大山寺縁起によると、ある日依道が金色の狼を追って大山に入り矢で射止めようすると目の前に地蔵菩薩が現れた。
それを見た依道の心に信仰心が生まれ、狼はいつの間にか老尼と化し、依道に話しかけて来た。
この出来事により依道は出家し、仏道の修行をしてこの山に地蔵権現を祀りその名を金蓮と改めた。
最盛期には100を超える寺院と3,000人以上の僧兵をかかえ、高野山金剛峯寺(和歌山県)や比叡山延暦寺(滋賀県)と並ぶ日本屈指の大寺院になった。
しかし、明治時代に神仏分離や仏教を否定する動きを受けて廃絶し、本社は大神山神社奥宮となった。
大神山とは大山の古い名前でこの宮には大国主命(大黒さま)が祭られている。
↓ 大山寺から大神山神社奥宮へ行く参道
↑ なんでも自然石を使った参道では日本一とか・・・へぇ~こんな日本一もあるんだ。
↓ やがて鳥居が見えてきた
↓ 神門、通常の門とは扉が逆向きに開くので逆さ門とも言われいるとか。
↓ 本殿
↑ この本殿は文化二年(1805年)の建立といわれ、神仏混淆時代の特徴である権現造りという形式。
↓ 境内社・下山大明神
元徳二年(1330年)大神山神社を尊信した備中郡司・渡邊日向守の一子・照政公は、参拝の帰路奇禍に遭い不慮の最後を遂げた。
人々はこれを憐れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験ありて後、夢のお告げによりこの地に奉遷した。
多くの武将の信仰があり現在の社殿は代々信仰の厚かった石州津和野の領主・亀井隠岐守矩賢公が文化二年(1805年)に再建、
重要文化財に指定されている。
↓ 境内社・弁財天
↓ 下参道
最近のコメント