鳥取城跡
鳥取城の築城時期については諸説あるがこの城が因幡支配の拠点となったのは武田 高信の時期。
そして戦国時代の16世紀中頃、因幡国の守護大名・山名 豊国は本拠地をここ久松山(263m)に移転した。
この時のお城は「山上の丸」とそこから西にのびる非常に急な尾根を中心に築城された。
それを裏付ける斜面を平らに削った遺構が数多く残されている。
そこに築かれた山城は戦闘用として使われ 通常時の居住は「山下の丸(サンゲノマル)」に置かれた。
↓ 山城(山上の丸)と山下の丸
山名の後、城は毛利氏の傘下となり毛利の最前線の城として羽柴秀吉と壮絶な戦いを繰り広げた。
2度目の城攻めの際、籠城した吉川経家に対し秀吉は圧倒的兵力で包囲網を敷き一切の補給路を断つ「兵糧攻め」を行った。
結果、経家は城で戦った部下や城に避難した民衆の命と引き換えに自刃し城をあけわたした。
この戦いは「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれ、秀吉の天下統一の布石となった。
兵糧攻めの後新しい城主となったのは秀吉の側近・宮部 継潤で、「山下の丸」に石垣や天守を築き鳥取城を一新させ近世城郭の体となさしめた。
従い鳥取城跡は中世の山城的遺構と近世城郭遺構が両存する日本城郭史上でも類の少ない城跡で、学術的にも歴史的にも貴重な城跡として1957年国の史跡に認定された。
その後宮部 継潤の息子・長房は1600年関ヶ原の戦いで西軍についたため東軍の攻撃を受け、開城。
開城後は 池田 長吉に託され、姫路城を築いた兄の池田 輝政とともに両城は西国の豊臣系大名の抑えを担った。
↓ 城跡入口
↓ 門
↓ 下の矢印が門
↑ 山下の丸全体図
↓ 門をくぐると三の丸へ至る階段
↓ 三の丸跡
↓ 二の丸跡
江戸時代の前期、二の丸には藩主が住み家老などが政治を司る藩主の御殿があった。鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三の丸に移され石黒大火(1720年)で焼失、三階櫓は早くに復旧されたが御殿は幕末の弘化3年(1846年)まで再建されませんでした。
二の丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれ1957年国の史跡に指定された後、最初の石垣修復工事が行われた。
↓ 三階櫓跡
三階櫓について
城が鳥取藩32万石の政庁となった元和3年(1617年)からまもなく建てられ、元禄5年(1693年)に山頂の天守が落雷で焼失した後はこの櫓が天守の役割をした。享保5年(1720年)の大火で焼失するも藩を象徴する建物であることから再建された。
↓ 三階櫓跡
↓ 山下の丸の最上階「天球丸跡」
古絵図 ↓ によれば、天球丸には風呂屋敷と呼ばれる門や東側隅に建てられた三層の櫓などがあった。
関ヶ原の戦い後、城主・池田 長吉の姉・天球院がこの三層の櫓 に住んでいたことから、後に天球の丸(天球丸)と呼ばれた。
三層櫓は享保5年(1720年)の大火で焼失したとある。
1990年から2010年にかけ石垣修復工事とそれに伴う調査が行われ、天球丸の構造的な変化の様子が明らかになった。
天球丸は山下の丸の一番高いところ(標高51m)にあり、東側を巨大な竪堀で守った軍事的にも重要な場所で戦国時代末から江戸時代初期頃までは、今の姿と違っていた。
天球丸が今のように広い敷地となったのは鳥取城が鳥取藩32万石の居城として再整備された元和3年(1617年)から後。
もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張されたが、この手法は全国的にも確認例の少ない珍しいもの。
↓ 天球丸跡を支える球状に積み上げられた「巻石垣」
これもここでしか見られない大変珍しい石積みである。
石垣が崩れるのを防止するため・・・と言われている。
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