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今日はクリスマスイブです。
”サンタクロース” って、一体何者 ??? 調べてみた。
4世紀ごろ、現在のトルコでミュラの司教であった聖ニコラスと言われています。
彼は、日ごろから困っている人や貧しい人を助け、自分の持ち物を惜しまず与えていた心のやさしい人でした。
あるとき、ニコラスの近所に3人の娘のいる家族が住んでいました。
たいへん貧しくて、娘を売らなければならないほど、お金に困っていました。
そのことを知ったニコラスは、その夜、その家の煙突から金貨を投げ入れました。
ちょうどその金貨は、暖炉のそばに干してあった靴下の中に入って、そのお金で娘は救われました。
聖ニコラスは、同じことを下の2人の娘のときも繰り返し、その家庭を救ったと言われています。
クリスマスに靴下を下げておくと、サンタクロースが煙突から入って贈り物を入れてくれるという習慣は、ここから生まれたようです。
ニコラスにまつわる伝説や奇跡は、この他にたくさん残ってます。
船乗りを嵐から救ったり、殺された子どもを生き返らせたという話も伝えられています。
彼は、つねに子どもたちや貧しい人、弱い立場にある人と共に生きていたので、「子どもの守護の聖人」とされています。
尾崎 放哉なる俳人をここ小豆島へ来て知った。
尾崎 放哉(本名・尾崎 秀雄)は大正時代の俳人。
鳥取市吉方町に明治18年(1885)に生まれ、東大卒業後、生命保険会社に就職、
大阪支店次長を務めるなど出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然それまでの生活を捨て、大正12年(1923)から放浪生活に入る。
先輩・荻原井泉水の世話で小豆島の井上 一二 を頼って来島し、西光寺住職・杉本 宥玄の好意で奥院南郷庵の庵主として居住、
大正14年8月から同15年4月に亡くなるまでの八か月間、自由律俳句200余句をつくり人々に感動をあたえた。
いれものがない 両手でうける
障子あけて置く 海も暮れ切る
夜びて 吹いて 朝も 吹いて 師走の 島はよ
咳をしても一人
の解釈は、
激しい咳をして苦しいが、自分には看病してくれる人もいなければ、身を心配してくれる人もいない。
ただ一人。孤独である。
墓地からもどって来ても一人
という句もあり、
墓地とは”死の地” もどって来た南郷庵=家 は”生きる地”
放哉の思いの中では、「家」には、誰かがいてほしい、家族が待っていてほしいとの願望がある。
しかし実際は、「墓地」でも「一人」、家でも一人と極めて孤独。
孤独の寂しさを詠んだもの。
私と同じだ・・・・。
桟敷とは演劇,相撲などの興行を見物するための上等の見物席をいう。
ここの桟敷は祭り見物のため。
富丘八幡神社の本殿は高台にあるため祭りの奉納はふもとの馬場で行われる。
高台の北西側の傾斜地を利用し、石垣で桟敷席がつくられている。
桟敷は江戸時代後期から次第に増加してきたもので、毎年秋に開催される例大祭行事を見物するための観覧席として今も使用されている。
石垣造りの桟敷は最下段の桟敷の裾を結ぶと 約150mの浅い馬蹄形になっている。
最上段の桟敷と馬場との比高差は約24m、戦前にはおよそ 420 面余りあったが現在使用されているのは364面程。
いずれの桟敷席からも馬場の全景を見渡すことができる。
この桟敷は祭典当日それぞれの家族がくつろぐ団欒の場でもあり、親戚や友人を招いての交歓の場でもある。
そして太鼓や神輿の奉納など賑やかな祭典行事を楽しみ一日を過ごす場。
この桟敷は宮司や氏子総代が綿密な制度を作り、管理と運営を実施し二百数十年の長い間祭典を盛り上げ人々を楽しませてきた重要な文化遺産。
↓ 看板にある祭り風景
小豆島の宝生院には樹齢1500年以上と推定されるシンパクがあり特別天然記念物に指定されている。
↓ 宝生院 入口通り
シンパクで特別天然記念物に指定されたものは我が国ではここにある樹のみとか。
シンパクはイブキ又はビャクシンとも言われ我が国中部以南の海岸まれに山地に自生する裸子植物。
葉形は幼樹の頃は針状だが大きくなり大樹になると鱗状に変わる。
根本の幹周りは16.6m、地上約1 mのところで三方に裂開したように枝幹を出し、本幹の基部の一部分は朽ちて空洞となっているが樹勢には何ら関係なく極めて旺盛な壮観で遠くから眺めると森のように見える。
この樹は第15代応神天皇が小豆島遊幸の時、皇踏山に登られ南麓の小高い所に御手植になられたとの伝説がある。
↓ 三方に裂開した根本
ご神木に宿る聖獣として① 龍 ② 象 ③ 亀 が紹介されている。
↓ 龍
天に向かい幸せをつかみに行く昇り龍、水を司る神とされる。
↓ 象
お釈迦様誕生の際、母・摩耶夫人は6つの牙を持つ白い像がお腹の中に飛び込んできた夢をみて懐妊したとされる。
↓ 亀
鶴は千年、亀は万年と言われるように長生きの縁起物とされる。
亀に見えるような見えないような ???
平和の群像は昭和29年の木下恵介監督・高峰秀子主演による壺井 栄の小説「二十四の瞳」の映画化を記念してできた像。
二十四の瞳のあらまし
昭和 3年頃、島の南にある田ノ浦岬の分教場に若い女性教師の大石先生が赴任してきた。
若い「おなご先生」は当時は珍しく、自転車で通勤し周囲の目をひく。
教え子たちに深い愛情を注ぎ教え子たちも先生を慕うようになる。
小学校卒業後の教え子のそれぞれの人生や結婚後の大石先生の生活が描かれる中、日本は満州事変、太平洋戦争へと突入していく。
戦争に翻弄される大石先生や教え子達。戦争の犠牲になり戦死したかっての教え子たちが、与えられた逆境の中で母として女性として力強く新しい時代を生きていくであろうことが暗示されている。
寒霞渓の紅葉がきれいだと連日TVで聞くので出かけてみた。
高松から小豆島へのルートは4つもある。
高松 ⇒ 土庄 ルートは「小豆島タートルマラソン」の最寄り港で現役時代に毎年1回はマラソン参加のため乗船した。
高松 ⇒ 坂手 ルートは「小豆島オリーブマラソン」の最寄り港だがフェリーに乗った事はなく、坂出から坂手まで船をチャーターしてマラソンに参加した。
高松 ⇒ 池田,高松 ⇒ 草壁 ルートは利用したことはない。
今回は寒霞渓へ登る最寄港として草壁行のフェリーに乗船。
↓ 今年10月に就航したという内海フェリーの新造船「ブルーライン」
↓ 船内もきれい
船首にVIP ルームがあり、コロナ禍でなければ有料のところ、この日は自由に出入りできた。
前面ガラス越しに瀬戸内海が広がり操船気分に浸れる。
↓ 草壁港に到着
↓ 港にある厳島神社
ここからロープウエイ乗り場の「こううん駅」までウオーキング
草壁港からずっと上り坂が続く。
↓ 内海ダムが見えてきた。
↓ こううん駅に到着
↓ こううん駅近くの紅葉
↓ ロープウエイからの景色
とにかくこの日は紅葉を満喫した一日だった。
↓ 烏帽子岩 神主さんがかぶる冠(烏帽子)に似ているところからこの名が付いた。
↓ この岩に這いつくばっている根っこ、どうなっている?
大塚美術館には過去数回行った事がある。
団体旅行で行ったので、じっくり絵画を鑑賞するという余裕はなかった。
じっくり・・・が目的で、ひとりで行ってみた。
道路沿いに面した入り口( ↑ ) を入ると、いきなり展示階へ上がる階段が迫る。
↓ エスカレーターを使えばいいのに、歩数計稼ぎで階段をのぼる、112段あった。
上がると第二の入り口 ↓
↓ 中に入ると売店や軽食コーナもある広いロビーがある。
ロビー正面ホールには、バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂を再現したホールがある。
入るとミケランジェロの「最後の審判」がド迫力で迫りくる。
ここだけで大塚美術館へ来た甲斐があると初めての人は思うに違いない。
↓ ブリューゲル作・バベルの塔
『旧約聖書』の創世記に登場するバベルの塔を主題として描かれた作品。
ブリューゲルがバベルの塔を描いた作品は三作あったが今はふたつしか残っていない。
創世記にある塔の意味は、増長者は罰を受ける物語と解釈され、ブリューゲルも意図的にこの解釈で作品を描いた。
塔の建設に関わる人間がどれだけ努力しようとも終局的には無益に帰してしまうことを示唆しているという。
現代社会の高層ビル群が立ち並ぶ光景に通じるものがあると思ってしまう。
↓ サンドロ・ボッティチェッリ 作「ヴィーナスの誕生」
↓ 同じく「春」
↓ ヨハネス・フェルメール作「真珠の耳飾りの少女」
ヨハネス・フェルメール(1632年~1675年)は17世紀のオランダの画家。
フェルメールブルーと呼ばれる青色の美しさに定評があると記憶している。
オランダのモナリザ、北のモナリザとも言われる。
↓ ムンクの「叫び」
↑ 絵画の説明看板に曰く、
「黒く青いフィヨルドと町の上には血まみれの舌のような形の炎がかかっていた。友人は先を行き、私は震えながら後に残った。
その時、自然を駆け抜けるような大きな終わることのない叫びを聞いた」(ムンク)
斜めに走る欄干から生まれる画面左奥へ収斂してゆく遠近法的な空間が心理的な緊迫感を一層高めている。
画家の個人的な体験に重ね合わせた世紀末の黙示録的な世界である。
大塚美術館の特設会場にゴッホのひまわり展があった。
ゴッホが残したひまわりの絵は全部で7枚。
陶板ながらその7枚を並べて一堂に見れるのは世界でもここだけ???
そのうちの二作目は戦前 日本にあったが残念ながら第二次世界大戦で焼失した。
幸いカラー写真が残っていて、それを元に大塚美術館が2014年10月 陶板で再現した。
白樺派美術館の設立を考えていた武者小路実篤の依頼で、1920年 実業家の山本顧彌太がスイスにあったこの絵を 現在の換算価格・約2億円で購入した。
購入後東京や大阪で展覧会が行われたが美術館設立の構想が頓挫したため、兵庫県芦屋市の山本氏の自宅にあったが 1945年8月6日アメリカ軍の阪神大空襲を受けて焼失した。
焼けずに残っていたら・・・と思うと残念!
ちなみに一作目のひまわりはこちら ↓
↑ ドイツ・ミユンヘンにあるノイエ・ピナコテーク美術館所蔵
↓ 4作目
↓ 5作目
↑ 東京 SMPO美術館所蔵
↓ 6作目
↑ アムステルダムのファン・ゴッホ美術館所蔵
↓ 7作目
↑ フィラデルフィアの美術館所蔵
三作目をゴッホ本人が模写したと言われる。構図はいっしょ、色使いが違うだけ。
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