ウランダー墓
このお墓には1846年に亡くなった2人のフランス人が葬られている。
当時の沖縄(琉球)の人は西洋人の事を「ウランダー」と呼んでいたことから、西洋人の墓 即ちウランダー墓となった。
ちなみに琉球には母音が3っしかなく「あいうえお」は「あいういう」となる。
これを沖縄口(ウチナーグチ)といい、ウランダーは日本では「オランダー」となる。
沖縄へ来る外国人の多くがオランダ人だったことから、西洋人はすべてオランダ人と思われていたのか?
1846年6月、フランスの3隻の船隊が琉球王国との交易交渉のために今帰仁の運天港に入港し、約1か月間碇泊し首里王府と交渉、その間に2人の乗組員が病死し、ここ屋我地島運天原の岬に手厚く葬られた。
二基の墓碑には砂岩(ニービ)に国名・二人の名前・艦船名・死亡年月日が刻銘されている。
墓の管理は今帰仁間切(今帰仁村)運天が行ってきたが、第二次世界大戦後は地元運天原の人々が毎年12月24日に清掃と供養をしている。
オランダ墓は近世末の日本・琉球だけでなく世界の動きを知る手がかりとなる貴重な文化遺産となっている。
↓ 向かって左が「撤慮」の墓碑、右が「貴大爾」の墓碑
↓ お墓の前には古宇利島への橋が見える
沖縄、特に瀬底島では目の前に海が見えるお墓が多い。お墓は本土と違い、桁外れに大きい。そして死者の蘇りを意識して子宮をイメージに造られている。
そのお墓の前で家族・親戚が集まる行事が年に数回あり、その一つが「あの世のお正月」行事。
旧暦の1月16日に行うのが習わしだが、瀬底島では40年前頃から新暦の1月16日に変更したそうだ。
沖縄全体では、まだ旧暦の1月16日に行っている所が多いとか。家族・親族が集まりお墓の前で正月を祝う。
本土にはない風習で沖縄ではそれほど死者を大事に扱っている。
だからお墓も風光明媚な場所に造るのかも知れない。
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