勝連城跡
うるま市にある勝連城跡へ行ってきた。
↓ 場所:黄色矢印
この城は、勝連半島の付け根に位置し標高 60m~100mの丘陵に築かれている。
崖の地形を巧みに利用して築城され、城の南側には南風原集落が展開し、海岸には海外貿易の拠点となる港があった。
城の北側は、かって湿地帯で城の財政を支える水田などの農地が広がっていた。
説明看板から
勝連城は五つの曲輪からなり最も高い一の曲輪に上ると北は遥か金武湾を囲む山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念半島や中城湾、それを隔てて御佐丸の城である中城城が一望できる景勝地になっている。
琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司・阿麻和利が住んだ城。
伝承によると城主は勝連按司から最後の城主・阿麻和利まで10代続いたと伝えられる。
勝連城や城主(按司)については、沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』に数多く詠まれていて、勝連は”きむたか(肝高)”と表現され、京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、阿佐和利も「千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王」と讃えられている。
阿佐和利は国王の重臣で中城に居城した御座丸を1458年に滅ぼし、さらな王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めたが大敗して滅びた。
阿佐和利が滅ぼされた事で首里城を中心とする中山の王権は一段と安定した。
↓ 城の全体図
↓ 復元図(黄色矢印は三の曲輪)
↓ 四の曲輪から三の曲輪への階段
四の曲輪から長い石段を上り詰めた所にかって内郭の門があり、この門は四本の柱で屋根を支える四脚門でした。
薬医門と呼ばれ、東京大学の赤門がその代表ですが16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造です。
↓ 門をくぐって見る風景は絶景
↓ 三の曲輪の配置図
三の曲輪には古い時代には堀立柱の建物が並び、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も中央部で見つかっている。
新しい時代になると、この三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし儀式を執り行う広場に変わっていった。
その後、城が滅んでからは祭祀の場として使用され、中央西側に「肝高の御嶽」、その近くに神人たちが祭祀の際に休憩する「トゥヌムトゥ」と呼ばれる石列などが遺されている。
↓ 二の曲輪
↓ 一の曲輪への階段
一の曲輪への階段は敵軍による侵入などの勝連城有事の際の最終防御ラインとしての役割を担う。
城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造になっている。
また石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなど様々な仕掛けにより少ない兵力でも敵と互角に戦える工夫がされている。
↓ 一の曲輪
一の曲輪は1965年から発掘調査が行われ、いろいろな事が判明した。
岩盤を削って平坦にするなど大掛かりな土木工事を行い、瓦ぶきの建物があったことが分かっている。
多くのグスクの中で瓦ぶきの建物はこの城の他には首里城と浦添城だけ。
出入口の門付近から唐草模様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾を施した豪壮なアーチ門であった可能性がある。
↓ 一の曲輪
↓ 玉ノミウヂ御嶽
勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。
ここでは村の繁栄が祈願されていました。霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には建物の基礎に利用されていたと見られる。
発掘調査によりかってこの曲輪には宝物殿 ↓(イメージ図)のような建物があったことが分かっています。
また、霊石脇にある洞穴はかって二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており有事の際の避難路として使用されていたという伝説が残されている。
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