« 2021年1月 | トップページ | 2021年3月 »
剣山(標高1955m)へは一度山頂まで登った事がある。ある夏のことだ。
今は冬、雪があるだろうなぁ~とは思っていた。
だからタイヤチェーン(チェーンではなくゴムベルト)を積み込んだのは大正解だった。
途中から道は こんな風に ↓
息子と一緒にタイヤチェーンを装着。この作業、意外に手こずった。とても一人ではできない。
前輪(駆動輪)に装着し終えるのに一時間強費やした。やれやれ・・・。
チェーンのおかげ、スリップする事もなく雪道を走れたが さすがスピードは出せない。
つづら折れの道をまずは「見の越」にある登山リフト乗り場を目指すことにした。
↓ 登山リフト乗り場に到着
誰もいない・・・リフトは5月から11月までしか動いていないと知る。当たり前かも。
下の地図を見るとリフトで登っても、頂上まで尾根道コースを辿って徒歩40分くらいはかかるらしい。
夏来た時も歩いたと思うがさっぱり覚えていない。
車でも行けそうな道もMAPにあったが、登山装備もしてないのでやめた。
剣山国定公園の山々の説明看板より ↓
剣山国定公園は剣山を中心とする山岳地帯と大歩危・小歩危及び祖谷渓などの渓谷地帯からなっており、昭和39年(1964年)に国定公園に指定された。
剣山山系は西日本第2の高峰・剣山(1995m)をはじめジロウギュウ,三嶺,丸石など1600mを超す山々が連なり、山頂部では360°の大パノラマが広がるとともにシコクシベラ,ダケカンパなどの亜高山植物やキレンゲショウマがみられる他、カモシカやツキノワグマ,ルリビタキが生息し、夏にはカッコウやコノハヅクの鳴き声を聞くこともできる。
また剣山は古来より信仰の山として崇められており、四季折々に見せる美しい剣山の風景は神秘的である。このような素晴らしい自然を子供達に残すため自然環境の保全に努めましょう。
息子の嫁のお父さんは若い時から写真マニアで、最近では第74回 県展で香川県教育委員会奨励賞を受賞、第75回,77回香川県美術展覧会でも入選を果たした。
そのお父さんが属する「丸亀東ロータリークラブ」の写真同好会が 毎年写真展を開いている。
今年で21回目、9 名の作品が展示されている。
今回のお父さんの作品は4点でそのうち私が一番いいなぁ~と思った写真がこれ ↓
タイトルは「寒い」
ブルーシートを、誰がいつ どんな思いでかぶせたのか・・・
そのシートが今は劣化してコートのような風合いに見える・・・
お地蔵さんもあまりの寒さにコートを羽織った・・・
そんな情景が浮かんでくる。
ちなみにタイトルはお父さんの奥様が考えたものらしい。Good!
↓ 第74回 県展で香川県教育委員会奨励賞受賞作品「太古の火」
↓ 第75回香川県美術展覧会 入選作品「祭りの日」
↓ 第77回香川県美術展覧会 入選作品「農村」
毎月一回行くウォーキングのコース、今回は高松市にある稲荷山をとおり峯山へ行くコースと決めた。
JR栗林公園北口駅からまずは標高166mの稲荷山をめざす。
↓ 写真右端が出発地
↓ 駅から中野稲荷神社の鳥居をくぐる。鳥居のすぐ上には高架の線路が走る。
稲荷山は ↑ この神社の境内右奥からのぼる。
つづら折りの山道を登っていくと稲荷山姫塚古墳や石船積石塚,鏡塚,小塚など 古墳がいっぱいある。
↓ 石船積石塚
↑ この古墳は岩清尾山古墳群のひとつで最も早く国の史跡に指定された。
鏡塚の南に位置し前方部を北側にむける前方後円墳、古墳の全長は約 57mの規模を持ち墳丘形状を良く残している。
後円部墳頂にくりぬき式割竹形石棺があり、棺身には造り付けの枕がある。この石棺が船形様であることから石船塚と呼ばれる。
円筒埴輪が出土しており五世紀初め頃に築造されたと考えられている。
↓ 山からの眺望
① 大久野島神社
1929年に毒ガス工場が開所された際、従業員が社殿を修復して「大久野島神社」として1932年に現在地に移転。
境内では入学式や卒業式など様々な行事が行われ、1937年には毒ガス製造による犠牲者の鎮魂の殉職碑が建てられた。
↓ 1943年 青年学校修了者と養成工の合同卒業式の様子
↓ 立派な狛犬があるのに、本殿は崩壊しかけている。修復して欲しいものである。
② 大久野島灯台
明治27年5月初点灯、灯器は石油を使用していたとか。
この灯台の説明を読んでいると、それぞれの灯台では光を見てどの灯台かが分かるように光り方や色が決められているという。これを灯質といい、たくさんの種類があるらしい。
造船所で働いていて海上試運転に何十回も乗船したのに、操船者からそんな話は聞いた事もなく、全く知らなかった! 驚き 驚き。
ちなみに大久野島の灯質は白い光り3秒・消灯3秒を繰り返す「等明暗白光」だという。
③ 展望園地
展望園地は花こう岩が風雨に風化・浸食されてできた所で、海に向かい傾斜した天然の広場。
そこからは大三島を中心にパノラマ景観が眺望できる。
↓ 写真左端が大久野島灯台でその横に展望園地が広がる
④ 癒しのうさぎ
忠海までわざわざ船でうさぎのエサを買ってきたかいがあった。次々に寄って来る。
時々噛まれることも・・・。
大久野島は日清・日露戦争の勃発という緊張した時代背景の中、1902年芸予要塞大久野島保塁が設置され、22門の大砲も置かれた。
この時期を「芸予要塞時代」という。
また第二次世界大戦時は「陸軍工廠・毒ガス製造工場時代」と呼ばれ、毒ガス工場が建設され毒ガス兵器も製造していた。
そんな歴史を持つ島内には今も芸予要塞時代の砲台関連施設や陸軍工廠・毒ガス製造工場時代の発電所や毒ガス貯蔵庫など、当時を偲ばせる戦争遺跡が残されている。
↓ 毒ガス資料館 この日は休館日
↓ 発電所跡
毒ガス製造は 1929~1945年間に行われ、その電源供給用発電機が設置されていた。ここに8基のディーゼル発電機があった。
またこの建物では1944年11月~1945年4月までの間「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていた。使用された風船は動員学徒の女学生が和紙をこんにゃく糊で貼り合わせ作っていた・・・とある。
ちなみに「ふ号作戦」とは 1944年末から日本軍が行った風船爆弾攻撃の作戦名。
↓ 北部砲台跡
↑ 日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台の跡。
この島には北部・中部・南部の三箇所に砲台が設置され計 22門の大砲が置かれていた。
↓ 長浦毒ガス貯蔵庫跡
環境省の説明書きから ↓
旧陸軍は1929年から終戦までこの島で密かに毒ガス製造を行っていた。主な製品はイペリットとルイサイトでどちらも「びらん性」ガスで皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は多い時には1500トンに及び 15年間で 6616トンを製造したと言われている。
戦争が終わると進駐してきた連合軍の指示のもと、毒ガス工場や製品を1946年から約1年間かけて薬品で消毒したり太平洋の沖に沈めたり火炎放射器で焼却したりして処分された。
この建物はそれら毒ガスの貯蔵庫のひとつで、コンクリートの内側が黒く焼け焦げているのは火炎放射器で焼却した跡。当時貯蔵庫の前には高さ 3~4mの山を築き、コンクリートを迷彩色で塗って海上から見えないようにしていた。
↓ 三軒家毒ガス貯蔵庫跡
猛毒で皮膚がただれるびらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されていた場所。
各部屋の台座には10トンタンクが置かれ、工場から直接タンクに毒液が送り込まれていた。
↓ 芸予要塞時代の桟橋
芸予要塞時代に石でつくられた固定桟橋で、毒ガス工場時代にも人の上陸に使用されていたが、新たに表桟橋や西側の長浦桟橋ができて資材専用の陸揚げ桟橋となった。毒ガス工場の秘密を守るため本土から良く見えるこの桟橋を使用できなかったためと考えられている。
↓ 南部照明所跡
芸予要塞時代にサーチライトが置かれ、夜間に敵艦探知を行っていた場所。
反射鏡の直径 90㎝、照明到達距離は 約6Kmで昼間は手巻きリフトで地下に格納していた。
北部にも同じ照明所跡が見られる。
しまなみ海道(漢字で書くと”島並”と私は思っているが”島波”の説もあり) 沿いの瀬戸内海にはその名のとおり多くの島が密集している。
昔から本土と島々は船でつながっていたが、尾道から今治まで続く「しまなみ海道」が開通してから大きな島は陸続きとなった。
うさぎの島・大久野島は小さな島で、残念ながら陸続きとはならなかった。それ故、この島には尾道の忠海からフェリーか客船で行くしかない。
この島へは車の乗り入れはできるが島内を走る事はできないから観光客は忠海に車を置いて行く。
↓ 矢印が大久野島
↓ 大久野島行き客船
15分ほどで島に到着。
↓ 島へ物資を運ぶトラック用も兼ねているのか 広くて立派なフェリー桟橋
桟橋から「休暇村 大久野島」へは送迎バスが運行していた。
↓ 休暇村
一周およそ3.3Kmの小さな島に、約1,000羽のうさぎが生息している。
猫の島はちょくちょく耳にするがうさぎの島はここしかない。
何故こんなに多くのうさぎがいるのか? 調べてみた。
戦時中この島は芸予要塞として毒ガス製造が行われ、 毒ガスの実験用として多くのウサギが飼われていた。
その事から、その子孫と思われがちだがが当時のウサギの子孫はもういない。
戦争が終わり高度成長期に入ってから観光の大衆化が進み、この島の毒ガス製造アトの安全性も確認され、国民休暇村として整備されることになった。
その時、観光客を呼び込むために、島のマスコット的な存在としてウサギが選ばれたそう。猿や鹿もマスコット候補に選ばれたが最終的には島の歴史と縁の深いうさぎに決まったという。
うさぎは野生だが人にすごく慣れていて、寄って来ては餌をねだる。
特に山道を歩いていると遠くから人を見つけて走り寄って来るのがたまらなく可愛い。
走り寄って来るうさぎにやるエサを持ってない虚しさに耐え兼ね、わざわざ尾道の忠海まで買いに行ったほどだ。
何故か休暇村にはエサを売ってはいなかった。
大久野島へ行く途中、尾道にある千光寺に立ち寄った。
千光寺(真言宗)は中国観音霊場第十番札所。
大同元年(806年)の開基と伝えられ、住吉から霊験あらたかな信仰と比類ない景勝の寺として広く知られている。
駐車場から観音坂を下る。
↓ 境内入口
↓ 三十三観音堂
↓ 石鎚山鎖修行
巨岩の山を通称「石鎚山」と云い、鎖(女鎖)を伝い登っていくと頂上に「石鎚蔵王大権現」があって、巨岩の後ろを通り帰って来るらしいが、くさりを登る自信なく諦めた。
↓ 巨岩に彫られたカラス天狗
烏天狗は熊野権現の神使と言われている。
↓ 阿弥陀三尊像(磨崖仏)
↑ 千光寺は大同元年(806)の創建といえる古刹で、修験道との関係も深く千光寺山全体が聖地として修験道の道場でもあった。
境内や山頂付近には多くの巨岩が並び梵字などが刻まれ、五輪塔などの多くの石造物がある。岩肌に密着するように建てられている本堂などの伽藍は斜面地の景観に溶け込み山と一体化した美しい姿を見せている。
阿弥陀三尊像(磨崖仏)はこうした石造物のひとつで、室町時代に制作され古くから尾道の人々の信仰を集め魅了している。
境内に高さ約15mの「玉の岩」があり、天頂部には大きな玉が置かれている。
これは「その昔、岩の上に宝玉があり、夜ごとに光っては遥か海上を照らしていた」という伝説を再現したもので、日が暮れると3色に光るように作られているとか。
残念ながら日が暮れるまで待っていられない。残念!
毎日の散歩コースで御供所を通る。
ちなみに「御供所」の地名由来を調べたら、坂出市のホームページに載っていた。曰く、
景行天皇の御代武殻王が大きな悪魚を退治して城山に留まり、当地方を治められたが 讃岐国内御巡視の途中、聖通寺山・東北道の海岸で病になった。その時里人が看護を申し出、麦をかもして酒を造って差し上げたところ元気を取り戻され、この里人を鵜足郡へ向かわせられた。これにより,この地を御供所というようになったと伝えられる。また,里説には崇徳上皇御配流の時,このことがあって御供所となったとも云われる。
明治の頃まで,この御供所に麦酒を造る風習が残っていたが,その始まりは今のところわからない。
散歩コースを少し外れ、山の方に行ってみたら神社を見つけた。
↓ 荒神社
そのすぐ近くに「御供所八幡宮」↓
さらに行くと「常盤神社」 ↓
常盤神社 由来
天保八年(1837)常盤権現として創建された。
口承では高松藩九代藩主・松平頼恕(父は水戸徳川藩主)が坂出大浜塩田の安全と繁栄を願って塩田を見下ろす西のこの地に常盤神社として創祀させた。
また天保大飢饉のさなか高騰した米価の引き下げ要求(米騒動)をして処刑された人々を御供所氏子と塩田の浜子達が祀った。
昔はここから塩田が広がる風景が見えたに違いない。
今は埋め立てられて番の州工業地帯が広がる風景と様変わりした。
香川県の大島に国立療養所大島青松園 があって香川県民としては昔から良く知っている。
しかし沖縄の屋我地島に同様な施設の愛楽園があったとは、ここに来るまで知らなかった。
1938年11月10日に臨時国立癩療養所として開園したとあり、国立とあるが「患者立療養所」と言われることもある。
と言うのも、青木恵哉や大城平永らハンセン病を患うもの自身が人間らしく生活できる場所を求め、手に入れた土地が愛楽園の礎となった事に由来する。
青木は熊本の私立療養所・回春病院から沖縄の患者にキリスト教を伝えるためにやってきた人物で、本部半島の備瀬や屋部を拠点として患者達を尋ねるうちに、自分たちの土地が必要だと考え、送金される活動費から少しづつお金を貯め2回に分けて3,000坪の土地を手に入れた。
1935年12月に羽地内海の無人島のジャルマ島から移住した場所で”愛楽園発祥の地”と呼ばれている。
↓ 青木恵哉 頌徳碑と銅像(銅像は2005年建立)
愛楽園の礎を築き「沖縄救癩の先駆者」と呼ばれる青木恵哉を顕彰する碑の建立計画が始まったのは、青木が死去した翌年 1970年。
建立期成会による寄付金募集が始まり、青木の出身地・徳島県からも青石が寄贈されている。
↓ 隣にある納骨堂
青木恵哉について(説明碑より)
青木恵哉は明治26年徳島県に生まれた。16歳でライを発症し大正5年香川県大島青松園に入園、大正7年に同園でキリスト教に入信。
後に聖公会系の熊本回春病院に転じ、昭和2年・34歳の時 病者伝道のため沖縄に派遣された。
世の偏見と戦いつつ伝道するうち真の病者救済のためには宗教的信仰の他、病者安住の土地を得る事が必要だとさとり、病者を組織して信念と智略をもってこれを指揮し無抵抗の抵抗を旨とする宗教戦争ともいうべきドラマを経て屋我地大堂原を勝ち取った。
昭和13年ここに愛楽園が生まれ、昭和44年3月6日に青木は昇天した。この碑は沖縄救癩の栄光のためにここに青木恵哉 頌徳碑を建立する。
痛み経て真珠となりし貝の春 恵哉
↓ 古宇利島が見渡せる
古宇利島とは長い橋でつながってる。写真画面奥がその島。
古宇利島北海岸の渡海浜(トケイハマ)には更新琉球石灰岩の円筒状空洞地形が発達している。
一説には化石林とされたが最近の研究では更新世後期の海岸に形成されたポットホールを原型とし、その後の海面低下に伴ってポットホールが下方に浸食され、円筒状空洞地形が発達したと推測されている。
これらの円筒状空洞地形には、その後周辺より運ばれた赤土が溜まり固結した赤土も観られる。
渡海浜一帯の海岸はこれらの地形や堆積物が連続して発達しており、貴重な自然景観を呈している。
渡海浜の小島にある不思議な穴が空いた岩々。
特にその小島周辺に多く見られ、まるで人の手によって開けられたかのような綺麗な円形の穴があいた岩をいろいろな場所で見ることが出来る。
ちなみに橋が架かる前の古宇利島
1. NO(エヌオー)の発見でノーベル賞受賞
1998年にNO(エヌオー)即ち一酸化窒素を発見したアメリカの3氏、ルイス・イグナロ氏、ロバート・ファーチゴット氏、フェリド・ミュラド氏に、ノーベル医学・生理学賞が授与された。一酸化窒素はノーベル賞を授与するに値するほど重要な役割を体内で果たしていることの査証に外ならない。
2.NO(一酸化窒素)とその働きとは
一酸化窒素とは窒素(N)と酸素(O)が結合した窒素酸化物である。血管の動脈は外膜、中膜、内膜の3層で構成されていて、外膜は血管の外側を保護する層で、中膜は平滑筋と線維から成り立っていて、伸び縮みする層で、内膜は内皮細胞と内皮下組織から成り立っている。
順調に血流が流れている時は、一酸化窒素はこの血管の内皮細胞で生成されて、中膜にある平滑筋に作用して、平滑筋の緊張が緩んで、血管が広がるので、血流が良くなる働きをしている。
以前、福岡歯科大学の平田雅人教授の「かかと落し健康法」を紹介したが、かかと落しを実行することによって、骨ホルモンと称するオステオカルシンが分泌されて、健康維持に効果があるという内容の話である。
今回の一酸化窒素の発見でノーベル賞を貰ったフェリド・ミュラド氏は当時スタンフォード大学の教授をしていた時に、平田雅人氏はこの大学に留学していて、教えを受けていたという逸話がある。
かかと落しで発生するオステオカルシンには、一酸化窒素の産生を促進する働きがあり、この一酸化窒素を作ることが、動脈硬化の予防になる。前述したように一酸化窒素には血管の平滑筋を弛緩させる働きがあるから、血流が良くなるし、血管内のコレステロールや血栓の発生を抑えることから、動脈硬化の抑制に効果がある。更に一酸化窒素にはアンモニアを取り除いたり、乳酸の消費を促進することによって、疲れにくい体を作る効果もあるという。
その他一酸化窒素の働きを整理すると、●血管を拡張する。●血栓を作りにくくし、血液をサラサラにする。●血管の炎症を抑える。●酸化を抑える。●血管内のコレステロールの塊であるプラークの発生を抑える。●毛細血管の数を増やす。
3.血管の老化
加齢と共に血管も硬くなり、衰えてゆくが、加えて生活習慣の悪い人には、更にそれを促進するような血糖値が高い、中性脂肪が多い、コレステロールが多い、血圧が高い、肥満である、運動をしないなどが重なり、最終的には動脈硬化を招いている。
血流の悪いところに、ガンを始めとして、いろいろな病気が発生するのは理の当然であるが、しなやかな柔らかな血管を維持することによって、血流を改善して疾病を防ぐためには、一酸化窒素の生成を昂進する方法を実行すれば、動脈硬化も予防できる。
4.一酸化窒素の生成を促進する方法
1)体操療法・・・●以前紹介した「かかと落し体操」をする。一日に30回。●床に座って、両足を真っ直ぐ前に伸ばして、足首を先方へ倒し、次に手前へ引き寄せるふくらはぎ体操をする。5分間。●自彊術体操をする。31の動作を約15分で行う。●外へ出て、20分の早足散歩をする。●家の中で足踏み体操をする。ゆっくり5分間。これ等の体操の中から気の向くものを始めたらよい。ただ高血圧や心臓に負担をかけないように、無理をせず、マイペースで、徐々に回数や時間を増やす工夫をする。
2)和温療法・・・元鹿児島大学医学部の教授で、今は和温療法研究所所長の鄭忠和氏が確立した療法で、それは、室温を60°Cに設定した遠赤外線乾式サウナ治療室で、全身を15分間温め、そのあと、椅子に座った状態で30分間保温し、最後に発汗量に見合った水分を補給するという方法である。全身を温めることによって、血管が広がり、血液循環が促進されて、血管内皮細胞から一酸化窒素が放出される。血管新生作用も起きて、動脈硬化を抑制する効果もある。詳細は鄭忠和氏の著書「なぜ微熱は体にいいのか」の中で、いま迄45年間の診療から、心不全を始めいろいろな難病の治癒例も掲載されている。
3)食事療法・・・骨も筋肉も血管も血液も毎日の食べ物によって、作られている。適量のタンパク質は白身魚、青魚や大豆製品から摂取し、生野菜、果物、小魚、海藻、ゴマ、コケ類、発酵食品、梅干しなど摂取すれば、ビタミン、ミネラル、酵素、抗酸化成分も補給できる。
4)避けるべき行為・・・高コレステロール、脂質異常症、高血圧、動脈硬化症は高脂肪、高蛋白質の欧米食に起因するものであるから、程々に控えることが肝要である。
またタンパク質と糖分の過剰摂取は体内で最終糖化産物という、別名AGEsを体内で生成させて、血管を傷つけ、老化を早めるから、摂取は控える。
更に活性酸素を体内に発生させるような事、即ちストレス、過激な運動、便秘、過労、食品添加物や農薬の多い加工食品の摂取、医薬品、酒、喫煙、長時間の直射日光は極力控える。
5.血管の欠陥は万病の元
死亡原因のトップスリーといえば、ガン、心臓疾患、脳卒中であるが、ガン以外の死因には、血管の欠陥に起因している。長年暴飲暴食を続けていれば、病魔に侵されるのも当然である。生活が豊かになり、これでもか、これでもかと毎日テレビでは、やれグルメだ、スイーツだと、浮かれているのは、如何なものか。
血管は沈黙の臓器と言われている。痛みや、痒みも感じないから、おろそかにされて、健康診断で指摘されても、生活に何ら不都合を感じないから、放置され続ける結果、最終段階に入って、突然として、発症したときにはもう遅い。薬では完治せず、手術によって応急処置を受ける羽目に陥る。今こんなに病人が多いのも、例えば糖尿病の人が予備軍を入れて、2200万人、高血圧3500万人、慢性腎臓病1300万人、骨粗しょう症1300万人、腰痛2200万人、変形性膝関節症1400万人、下肢静脈瘤1000万人、メタボ960万人等、薬では簡単に病気は治らないこの事実を真摯に受け止めて、日頃の生活態度に問題がないか、今一度反省することも無駄にはなるまい。病気になっても、医者に丸投げしないで、自分の努力で治せる病気と医者に治してもらう病気とがあることを知って、健康知識を身に着けて、自助努力に励めば、病人は減ることは間違いない。
6.まとめ
体操をすることによって、血流を高めて一酸化窒素を増やす行為は誰でもすぐに実行できることである。しかも副作用がない。私が毎朝実行している自彊術体操の31の動作の中にある、スクワットや前屈、かかと落しなどに、一酸化窒素を増やす効果があることを今回知ったが、百年前に創設した中井房五郎先生の先見の明に感動した次第である。今まで長年健康講座を開いていて、折に触れ、自彊術を薦めているが、実行してくれる人は稀有である。皆さんは体を動かすことが嫌いなのか、効能を認識出来ないのか。実際に体験しないと、その良さを理解できない。「座して死を待つ」のだろうか。
おわり
最近のコメント