大久野島の戦争遺跡
大久野島は日清・日露戦争の勃発という緊張した時代背景の中、1902年芸予要塞大久野島保塁が設置され、22門の大砲も置かれた。
この時期を「芸予要塞時代」という。
また第二次世界大戦時は「陸軍工廠・毒ガス製造工場時代」と呼ばれ、毒ガス工場が建設され毒ガス兵器も製造していた。
そんな歴史を持つ島内には今も芸予要塞時代の砲台関連施設や陸軍工廠・毒ガス製造工場時代の発電所や毒ガス貯蔵庫など、当時を偲ばせる戦争遺跡が残されている。
↓ 毒ガス資料館 この日は休館日
↓ 発電所跡
毒ガス製造は 1929~1945年間に行われ、その電源供給用発電機が設置されていた。ここに8基のディーゼル発電機があった。
またこの建物では1944年11月~1945年4月までの間「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の風船を膨らませ、弱い部分を補修する作業も行われていた。使用された風船は動員学徒の女学生が和紙をこんにゃく糊で貼り合わせ作っていた・・・とある。
ちなみに「ふ号作戦」とは 1944年末から日本軍が行った風船爆弾攻撃の作戦名。
↓ 北部砲台跡
↑ 日露戦争が始まる前の1902年に設置された芸予要塞の大久野島保塁北部砲台の跡。
この島には北部・中部・南部の三箇所に砲台が設置され計 22門の大砲が置かれていた。
↓ 長浦毒ガス貯蔵庫跡
環境省の説明書きから ↓
旧陸軍は1929年から終戦までこの島で密かに毒ガス製造を行っていた。主な製品はイペリットとルイサイトでどちらも「びらん性」ガスで皮膚をただれさせる性質を持ち、年間生産量は多い時には1500トンに及び 15年間で 6616トンを製造したと言われている。
戦争が終わると進駐してきた連合軍の指示のもと、毒ガス工場や製品を1946年から約1年間かけて薬品で消毒したり太平洋の沖に沈めたり火炎放射器で焼却したりして処分された。
この建物はそれら毒ガスの貯蔵庫のひとつで、コンクリートの内側が黒く焼け焦げているのは火炎放射器で焼却した跡。当時貯蔵庫の前には高さ 3~4mの山を築き、コンクリートを迷彩色で塗って海上から見えないようにしていた。
↓ 三軒家毒ガス貯蔵庫跡
猛毒で皮膚がただれるびらん性毒ガス「イペリット」が貯蔵されていた場所。
各部屋の台座には10トンタンクが置かれ、工場から直接タンクに毒液が送り込まれていた。
↓ 芸予要塞時代の桟橋
芸予要塞時代に石でつくられた固定桟橋で、毒ガス工場時代にも人の上陸に使用されていたが、新たに表桟橋や西側の長浦桟橋ができて資材専用の陸揚げ桟橋となった。毒ガス工場の秘密を守るため本土から良く見えるこの桟橋を使用できなかったためと考えられている。
↓ 南部照明所跡
芸予要塞時代にサーチライトが置かれ、夜間に敵艦探知を行っていた場所。
反射鏡の直径 90㎝、照明到達距離は 約6Kmで昼間は手巻きリフトで地下に格納していた。
北部にも同じ照明所跡が見られる。
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