愛楽園
香川県の大島に国立療養所大島青松園 があって香川県民としては昔から良く知っている。
しかし沖縄の屋我地島に同様な施設の愛楽園があったとは、ここに来るまで知らなかった。
1938年11月10日に臨時国立癩療養所として開園したとあり、国立とあるが「患者立療養所」と言われることもある。
と言うのも、青木恵哉や大城平永らハンセン病を患うもの自身が人間らしく生活できる場所を求め、手に入れた土地が愛楽園の礎となった事に由来する。
青木は熊本の私立療養所・回春病院から沖縄の患者にキリスト教を伝えるためにやってきた人物で、本部半島の備瀬や屋部を拠点として患者達を尋ねるうちに、自分たちの土地が必要だと考え、送金される活動費から少しづつお金を貯め2回に分けて3,000坪の土地を手に入れた。
1935年12月に羽地内海の無人島のジャルマ島から移住した場所で”愛楽園発祥の地”と呼ばれている。
↓ 青木恵哉 頌徳碑と銅像(銅像は2005年建立)
愛楽園の礎を築き「沖縄救癩の先駆者」と呼ばれる青木恵哉を顕彰する碑の建立計画が始まったのは、青木が死去した翌年 1970年。
建立期成会による寄付金募集が始まり、青木の出身地・徳島県からも青石が寄贈されている。
↓ 隣にある納骨堂
青木恵哉について(説明碑より)
青木恵哉は明治26年徳島県に生まれた。16歳でライを発症し大正5年香川県大島青松園に入園、大正7年に同園でキリスト教に入信。
後に聖公会系の熊本回春病院に転じ、昭和2年・34歳の時 病者伝道のため沖縄に派遣された。
世の偏見と戦いつつ伝道するうち真の病者救済のためには宗教的信仰の他、病者安住の土地を得る事が必要だとさとり、病者を組織して信念と智略をもってこれを指揮し無抵抗の抵抗を旨とする宗教戦争ともいうべきドラマを経て屋我地大堂原を勝ち取った。
昭和13年ここに愛楽園が生まれ、昭和44年3月6日に青木は昇天した。この碑は沖縄救癩の栄光のためにここに青木恵哉 頌徳碑を建立する。
痛み経て真珠となりし貝の春 恵哉
↓ 古宇利島が見渡せる
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