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沖縄では真っ直ぐに進めなくて左右に道路が分かれる いわゆる三叉路(T 字路や Y 字路)には、必ずと言っていいほど「石敢當」の表示がある。
この石碑は沖縄で古くから信じられている魔物の総称・ マジムンを撃退するために置かれているんだそうな。
このマムジンに股をくぐられた者は死んでしまうという迷信がある。
マムジンの種類は様々で、動物の身なりをしたものがほとんどだが、中にはしゃもじが悪霊化したものもあるらしい。
マジムンは真っ直ぐにしか道を進めず、曲がれないので T 字路や Y 字路にぶつかると、そのまま家や庭に入ってきてしまう。
それを防ぐのが、石敢當。
そもそも石敢當とは琉球時代から交流のある、中国の福建省から伝来したもので強い武士の名前にちなんでそう呼ばれる。
何故「石敢當」を見ただけでマムジンが撃退できるのか?
↑ 塀に「スイジ貝」を置いている。
これも立派な魔除けで、水を連想させることから、火にまつわる災害も避ける役目を果たすのだそう。
沖縄ではくしゃみをしたら「ハクション」でなく「クスケー」と言う習慣があるらしい。
これもマジムンから魂を奪われないための対策だという。
「クスケー」というのは、簡単に言うと「くそ食らえ」という意味で、汚い言葉でののしるとマジムンが傷付いて、魂を奪わなくなるんだとか。
石敢當の名前を見るだけで退散したり、「くそくらえ」の暴言で傷ついたりするマムジン、本当に悪霊なの???
古くから沖縄の人は魔の力を恐れ、目に見えないからこそ、いつ何時襲い掛かるかわからないと考えていました。
その結果、こうして二重・三重と対策を打ってきたのだそう。
いまなお「魔除け」文化が色濃く残っているのも、沖縄ならではなのです。
恩納村にあるシーサイドドライブインは2015年6月NHK総合テレビ「ドキュメント72時間」で紹介された沖縄初のドライブインレストラン。
昭和42年(1967)にオープンというから、私が川重に入社した年、当時沖縄はアメリカの統治下だった。
調べてみると、冷蔵庫の製造業者として米軍基地に出入りしていた創業者が、基地内のレストランを見てそのスタイルを気に入り、地元である恩納村にオープンした。
オープン当初からドライブ途中の休憩場所として利用され、テイクアウトもできる当時としてはモダンなスタイル。
創業当時から人気のシーサイドサンドとスープは今もメニューにあって良く売れているらしい。
そんな人気サンドとスープの思い出ばなしがドキュメントの中で語られる。
私もスープを味わったが確かにうまかった。
ドライブインは仲泊海岸沿いにあってそこからの風景がまた良い。
すぐ近くに見える小島(ヒートゥー島)に鳥居が見える、引き潮の時には渡れるのだろうか?
なんでも心霊スポットなんだそうな。
天霧城址へは弥谷寺を経由して行った。
↓ お寺の駐車場に車をとめて、お寺への「昇運の石段」を上る。
↓ 山門が見えてきた、「剣五山」の表札がある。
第71番札所は「剣五山千手院弥谷寺」が正式名称。
この寺は天平年間に、聖武天皇の勅命による祈願で 行基菩薩が開いたとされ、後に弘法大師が唐から帰国して修行をした際、天から五つの剣が降りて金剛蔵王権現のお告げを聞いたと伝えられ、これが、山号の由来となった。
↓ 大師堂への百八階段
百八には三つの意味があると書いてある。
① 煩悩を落とす・・・古来インドでは108は「無数にある」という意味があった。
② 一年を表す・・・月の数が 12、春分・冬至などの季節指標が 24節気、古代中国の季節方式が 72候で、これらの合計が 108。
③ 四苦八苦を落とす・・・4×9 + 8×9=108
除夜の鐘も一年の四苦八苦を打ち払う意味で108回打つ。
↓ 境内地図
108 段を上りきったところに大師堂があるが、まずは本堂へ参拝するのが筋っていうもの。
本堂と大師堂は隣接または対面近くにある寺が多いが、ここはえらく離れている。
本堂へ行く途中にある多宝塔 ↓
↓ 札所のお寺には必ずある大師像
↓ 磨崖仏
磨崖仏の三尊像は南に面する約 12mの岩壁に彫られており、中央の阿弥陀如来は約 1m,左右の観音勢至両菩薩は約 90cmで、全体に良く整って温和な表情をたたえている。
この像の左右の岩肌には南無阿弥陀仏と陰刻された六文字の名号(六字各号)が九行あり、これに関連して上方にある本堂付近の岩壁には無数の納骨穴が彫られている。
この納骨穴に対する回向のために、下方に阿弥陀三尊像及六字の各号が刻まれたものと思われる。
従いこれらは平安時代から鎌倉時代にかけてのものではないかと言われている一方、大師の作とも言われる。
↓ 本堂
↓ 本堂をお参りしたので次は大師堂へ
大師堂もお参りして帰途へついた。
「庭主が丹精込めて育てた素敵なお庭を周遊できる日」をキャッチフレーズに、宜野座村でオープンガーデンが始まった、期間限定。
沖縄には良く 「OPEN 〇〇〇〇」のイベントが多いように思う。
今回のオープンガーデンは個人の敷地内に大勢がやって来る催しで、本土ではそうそう聞かない。
他人宅を見てみたいという思いは程度の差はあれ、誰にでもあるんだろう・・・と思う。
そうでないと こんなイベントに人は集まらない。
15軒がエントリーしていて、全庭を期間中 何度でも訪問できるパスポートが500円で販売されている。
そのパスポートを早速ゲットして最初に訪問したのが2番・比嘉さん宅 ↓
15軒のうち2軒ほど除いて回れるところは全て回った。
見ているうちに、どこの庭にも共通している事が分かってきて、俄然 自宅の庭づくりにやる気が出て来た。
共通している事は、
1.花を地植えではなく、鉢を多用している事。
2.要所要所に岩や石やジャリを配置し、アクセントを付けている事。
3.雑草は生やさない事。
4.花の手入れがし易いようアクセススペースを設ける事。
5.寄せ鉢効果で華やかに見せる事
6.日当たりを考え、それに合った花の種類を選ぶ事。
早速 庭造りやろう! と意気込んで訪庭を終えた。
毎月恒例の里山トレッキング、
今月は善通寺市吉原町と三豊市三野町、仲多度郡多度津町にまたがる天霧山(矢印)をチョイス。
そこで弥谷寺から登ることにした。弥谷寺の駐車場に車をとめる。
天霧城は四国を代表する中世讃岐国にあった山城で、山の地形を利用した天然の要害を造り出したお城。
古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、冊をめぐらし要所要所に門や櫓を設ける程度の簡単なものだったが、室町時代に入り戦乱が長期化するようになると、戦闘も大きくなり城郭の規模も次第に大きくなっていった。
中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館跡も含めると、その数は香川県下だけでも400ヶ所近くが確認されている。
その中で天霧城はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい実践的な確かな構造形式といい、いかにも要害堅固で陸海どの方向の動向にも十分対応できるという地理的な好条件も備えた四国屈指の山城と言われる。
城ができる前の大宝2年(702年)には白方軍団の要城がおかれ、その後 相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔と言われる香川氏が14世紀後半に讃岐の守護・細川氏に従って入部し、西讃岐の要衝である多度津・本台山に居館を構えた。
後に西讃岐守護代になった香川景則が有事に備えた詰の城を天霧山に築城した。
景則の居館の本台山から天霧城までは直線で3Kmほどで当時(中世)の山城の基本的構造である「守るに易く攻めるに難い」という理想的な場所だった。
お城の全容がこちら ↓
本丸,二の丸,三の丸からなり、それらは石塁や空堀で守られている。
そうでなくてもお城への道幅は狭く、道の片側は切りたった尾根になっていて攻略するのは至難の業。
弥谷寺の本堂を抜けると城跡への道が見えてきた。
↓ 右側は急こう配で落ち込む山肌が続く。
↓ 犬返しの険
↑ この分岐路を右に行けば易々本丸へ行けたのに、真っ直ぐ空堀方面へ進んだもんだから尚一層険しく道なき道を行くことになった。
そのため、本丸 ⇒二の丸 ⇒三の丸と行くべきところを逆に辿る羽目になった。
↓ 三の丸跡
↓ 二の丸跡
↓ 本丸跡
こうして無事天霧城址は制覇した。
付録
このお城の別名は「雨霧城」または「尼斬城」ともいう。
尼斬城の由来がすごい !!↓
香川氏が長宗我部氏の侵攻を受け天霧城に籠城した際、水の補給路を断たれた香川軍が、長宗我部軍の目を欺くため水の代わりに白米で馬を洗い、遠目には水が城内に豊富にあるように見せかけた。
しかし、この様子を見た通りがかりの尼が長宗我部軍にこのことを告げたため、長宗我部軍の総攻撃を受けて城は落ち、尼はその後香川軍の落ち武者に斬られてしまった。
この伝説から、天霧城は一説に「尼斬城」の別名がある。
井上杏那さんの作品
「屋根より高いこいのぼり〜」の歌い出しで有名な、童謡「こいのぼり」の作詞者は近藤宮子、作曲者は不明です。
しかしもう一つのこいのぼりの歌がある事をご存知でしょうか。
1913年(大正2年)の「尋常小学唱歌 五学年用」に初めて掲載された「鯉のぼり」は、文部省唱歌として歌われてきました。
作詞者は不明、作曲者は弘田龍太郎だとされています。
歌詞は、鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」が元になっているといわれ、男の子が「こいのぼりのように雄大な姿に成長するように」という立身出世の願いが込められています。
私はこの歌のメロディーも一番だけですが歌詞も知っています。
「鯉のぼり」の歌詞
甍(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり
高屋神社は最近有名になった「天空の鳥居」がある神社。
天空の鳥居は正月に息子と車で行ったが、今回は稲積山の麓から歩いて登りたいと思った。
↓ 登り口(黒矢印)に車を駐車、まずは赤矢印のふもとの高屋神社を目指す。
↓ 麓の鳥居から稲積山の山頂が見える
↓ ふもとから 小さく小さく天空の鳥居も見える
↓ ふもとの高屋神社
祭神はニニギミの命・保食命(ウケモチノミコト)・咲夜比女命(サクヤヒメノミコト)で延喜式の神名帳(平安時代)に「讃岐国刈田郡高屋神社」とあり、延喜式内社讃岐二十四社のひとつ。
この神社は当初稲積山山頂にあったのを1600年頃に山の中腹に移し、さらに1760年頃に山麓に移したが、里人はその祟りを恐れ1831年に山頂の旧地に再び本殿を造営した。山の名前を取り「稲積社」とも呼ばれる。
↓ 境内の裏から山頂への道が続く
↓ 赤矢印がふもとの高屋神社
↓ 土日祝日はJR観音寺駅から登り口のここまでバスが運行されるらしい。
↓ 急な坂道が始まる
↓ 山道をしばらく辿ると中腹に、「高屋神社社中の宮」の鳥居があった。
↓ こんな道がずっと続く
↓ やっと後鳥居まで真っ直ぐに続く石階段に到達
↓ 鳥居に到着
↓ 山頂にある高屋神社
↓ 石段のど真ん中にゆるぎ岩、ゆるぎ岩の名前はあちこちにあるみたい。
1.解糖系とミトコンドリア系とは
我々が毎日口から摂取した食べ物は体内で消化分解され、各細胞に吸収されて、エネルギーとなって、生命活動を維持しているが、このエネルギーを生産する経路には、二通りあることをご存知だろうか。それが解糖系とミトコンドリア系(別名クエン酸回路・電子伝達系)である。この二つの経路を理解し、使い分けることによって、無病長生を計る一助としたい。
2.解糖系とミトコンドリア系の機能と役割
解糖系とは、細胞の細胞膜でエネルギーを生成している経路のことを言う。その特徴は酸素を使わないで、短時間でエネルギーを生成する。エネルギーとして使われる栄養素はご飯、パン、イモ類や砂糖などの糖質である。
一方ミトコンドリア系とは、細胞の中のミトコンドリアと云う器官でエネギーを生成していて、酸素を必要とし、即効性はないが、持続性があり、解糖系に比べて18倍のエネルギーを生成すことが出来るのが大きな違いである。
3.加齢と共にこの二つのエネルギー生成経路の分担が変わる
赤ちゃんの時から20歳頃までの体の成長期には、ものすごい勢いで日々細胞が増殖して、体を完成させてゆくが、そのエネルギーの基はもっぱら解糖系で生成している。無酸素で、迅速に、瞬発力で、低体温でもどんどんエネルギーが作られてゆく。ところが成長が完了した頃からは、エネルギーを作る主役はミトコンドリア系に、徐々に役割チェンジが起きて、低体温ではなく、有酸素の条件下で、持続力のあるエネルギーを作り出す。
従って高齢になると、体の摂理が自然と変わってゆき、ミトコンドリア系では、解糖系の18倍もの多くのエネルギーを作り出すから、大食しなくてもよいようになる。
4.ミトコンドリアとは
ミトコンドリアとは細胞内にある小器官で、細胞内で、栄養素からエネルギーを生成するだけでなく、傷ついた細胞を消滅させるアポートシス、神経伝達などにも関与している。体のひとつの細胞の中には平均では300から400個のミトコンドリアが存在するが、肝臓、腎臓、筋肉、脳、神経組織などの代謝の活発な細胞に数千個のミトコンドリアが存在し、全身の体重の10%を占めている。特徴的なことは、細胞核にあるDNA遺伝子とは別に独自のDNA遺伝子を持っていることである。そして親から子へ遺伝するのは、母親の持つミトコンドリア遺伝子に限られているから、 話が複雑になる。遺伝子解析が進歩した現在では、先祖を遡るとミトコンドリア・イブのことやら、日本人はどこからやって来たかとか、話題は尽きない。
5.赤筋と白筋の話
魚を例にとると、あまり動き回らないヒラメなどの魚の身は白いが、カツオやブリ、マグロのような動き回る魚の身には赤身が多い。スポーツでいえば、瞬発力が必要な短距離選手は白筋、持続力の必要なマラソン選手には赤筋が必要となるのも、ミトコンドリアで説明がつくのである。
6. 40歳からは生き方、食べ方を変えよう
7.自然の摂理、体の摂理には逆らえない
人間は数万年の歴史を経て、自然環境に適応して、体が作られている。自然の摂理から乖離した歪んだ生活を送っている人が病に侵される。
それを経験的に戒めているのが、42歳の厄年の習わしである。日本医大出身の病理学者である金子仁(かねこまさし)著「厄年の科学」という本がある。厄年は昔の人の生活の知恵であり、一種の健康法として根拠のない事ではない。昭和51年発行の古い本であり、ミトコンドリアのことはまだ書かれてないが、40歳を過ぎれば、この二つのエネルギー生成経路の理論を活かして生きることが賢明ではなかろうか。
事実40歳を過ぎた頃から、大食できなくなったとか、食べ物の好みが変わったとか、自覚する人も大勢いる。しかし若い頃の食欲旺盛な時の事が念頭にあるため、体がだるいのも、疲れるのも、栄養分が足りないのではないかと、勘違いして、焦って高蛋白、高脂肪のいわゆる欧米食を大食していけない。加齢と共に食が細くなり、嗜好が変わるのも自然な体の摂理なのである。
8.まとめ
1)いつも書いているが、いくら体に良いことを実行していても、一方で悪い事を止めない限り、病気は減らない、治らない。病気になるのには必ず原因がある。悪事は良事を駆逐する。
2)ガンを防ぐには、低体温や無酸素にならない体づくりをし、脳卒中や心臓疾患を予防するには、少食にして、腸内環境を整えて、綺麗な血液が滞りもなく、全身を巡る体作りを心がける。ストレスは血管を収縮させて、低体温、低酸素、低免疫力の三低のもとになるから要注意。
3)この記事を書くにあたって、納得させられたことは、無病長生を達成するには、体をよく動かして、食事にも気を配り、また精神の安寧を計ることの重要さだった。テレビでは相変わらず、これでもかと、毎日グルメだ、スイーツだと浮かれている。身の回りの人達に体操を進めても、食事が大事だと悪食を戒めても、どこ吹く風とばかり、ただ笑って実行せず。これでは病人は増加しても、減るとは思われない気がする。
おわり
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