天霧山頂にある天霧城跡
毎月恒例の里山トレッキング、
今月は善通寺市吉原町と三豊市三野町、仲多度郡多度津町にまたがる天霧山(矢印)をチョイス。
そこで弥谷寺から登ることにした。弥谷寺の駐車場に車をとめる。
天霧城は四国を代表する中世讃岐国にあった山城で、山の地形を利用した天然の要害を造り出したお城。
古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、冊をめぐらし要所要所に門や櫓を設ける程度の簡単なものだったが、室町時代に入り戦乱が長期化するようになると、戦闘も大きくなり城郭の規模も次第に大きくなっていった。
中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館跡も含めると、その数は香川県下だけでも400ヶ所近くが確認されている。
その中で天霧城はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい実践的な確かな構造形式といい、いかにも要害堅固で陸海どの方向の動向にも十分対応できるという地理的な好条件も備えた四国屈指の山城と言われる。
城ができる前の大宝2年(702年)には白方軍団の要城がおかれ、その後 相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔と言われる香川氏が14世紀後半に讃岐の守護・細川氏に従って入部し、西讃岐の要衝である多度津・本台山に居館を構えた。
後に西讃岐守護代になった香川景則が有事に備えた詰の城を天霧山に築城した。
景則の居館の本台山から天霧城までは直線で3Kmほどで当時(中世)の山城の基本的構造である「守るに易く攻めるに難い」という理想的な場所だった。
お城の全容がこちら ↓
本丸,二の丸,三の丸からなり、それらは石塁や空堀で守られている。
そうでなくてもお城への道幅は狭く、道の片側は切りたった尾根になっていて攻略するのは至難の業。
弥谷寺の本堂を抜けると城跡への道が見えてきた。
↓ 右側は急こう配で落ち込む山肌が続く。
↓ 犬返しの険
↑ この分岐路を右に行けば易々本丸へ行けたのに、真っ直ぐ空堀方面へ進んだもんだから尚一層険しく道なき道を行くことになった。
そのため、本丸 ⇒二の丸 ⇒三の丸と行くべきところを逆に辿る羽目になった。
↓ 三の丸跡
↓ 二の丸跡
↓ 本丸跡
こうして無事天霧城址は制覇した。
付録
このお城の別名は「雨霧城」または「尼斬城」ともいう。
尼斬城の由来がすごい !!↓
香川氏が長宗我部氏の侵攻を受け天霧城に籠城した際、水の補給路を断たれた香川軍が、長宗我部軍の目を欺くため水の代わりに白米で馬を洗い、遠目には水が城内に豊富にあるように見せかけた。
しかし、この様子を見た通りがかりの尼が長宗我部軍にこのことを告げたため、長宗我部軍の総攻撃を受けて城は落ち、尼はその後香川軍の落ち武者に斬られてしまった。
この伝説から、天霧城は一説に「尼斬城」の別名がある。
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