Jou光

  • 親父
    彼は子供の時から絵が上手いと、親の欲目で思っている。目の前でさらさら描かれると、ついつい感嘆してしまう。世の中いっぱい絵の上手い人はいるが、この道で飯が食えるのはスポーツ選手と同じで極一部。でもとにかく趣味でも良いから絵を描くことは続けて欲しいと願っている。

春爛漫

  • ぼけの花
    柿茶の里は徳島県美馬郡つるぎ町に位置する。柿の葉の生産農家へ毎年春と秋に行く。春はことさら美しい。桜が咲き乱れ山の木々が新緑に包まれる。澄んだ青空に身も心も洗われる気がする。

アユタヤ遺跡

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    1491年に建てられた王族の守護寺院。3つの大きな仏塔には、ラーマティボディ2世と父、兄の遺骨が納められています。 寺院ではありますが僧は居住せず、王の礼拝堂として王族の儀式に使用されていました。この寺院もまた、1767年ビルマ軍により破壊され、16mあったという金で覆われた仏像も金を奪われた後、壊されてしまいました。

暁の寺院 タイ

  • Pict0350
    トンブリ王朝時代の守護寺で最高位の寺院とか。きらきらと輝く陶器の破片に覆われた高さ約79mの大仏塔は、ラマ3世により5年がかりで改装された。朝日を浴びた大仏塔の神々しい姿が”暁の寺”の名前の由来。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

  • Pict0201
    セイロンへの留学から戻ってきた僧侶のために、1357年初代王ウー・トーンが建立しました。仏教寺院は瞑想の場として使用されていました。現在も多くの仏教徒が訪れ、週末は観光客でにぎわいます。

水上マーケット

  • Pict0116
    ダムナン・サダックの水上マーケット。その昔、”東洋のベニス”と言われたバンコクでは、日常的商取引には運河が利用されてきた。水上マーケットは、古き良き時代の情緒溢れるバンコクの生活を体感させてくれる。 

2008年7月 タイ王宮

  • Pict0429
    白壁に囲まれた20万㎡の敷地内には、1782年に建設された国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などチャクリー王朝歴代の王により建造・改築された建物が建ち並んでおり、ラマ8世までは実際にここに住まわてていたとか。

涅槃寺

  • Pict0386
    タイ語で Wat Pho(ワット・ポー)と呼ぶこの寺は、ラマ1世が建立したバンコク最大の境内を持ち、バンコク最古の歴史を持つ寺院。本堂には写真のようなリクライニング・ブッダの愛称で親しまれている寝釈迦仏が横たわる。足の裏には螺細細工でバラモン教における108の宇宙観が表現されていると言う。

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金魚

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昔ばなし

坂出の昔ばなし(「蛸埼」のいわれ)

『蛸埼』のいわれ

この公園のあたりは、昔海岸で、蛸埼と呼ばれていました。

なぜ、蛸埼と呼ばれるようになったのでしょうか。

昔、この海岸では牛を放して、牛たちが休む場所としていました。

牛たちは田を耕したり、荷物を運んだりと今のトラックの役目をしていました。

おおかたの家で牛が飼われていました。

でも、牛は生き物ですからリラックスさせないといけません。それでこの海岸で牛を放して自由に遊ばせていたのです。

さて、この海岸の沖には、蛸がたくさん棲んでいました。

ある日のこと、ものすごく大きな蛸が突然現れて、遊んでいた牛に飛びついて来ました。

牛はびっくりして、蛸を振り落とそうとしましたが、大きな吸盤で吸い付いたものですから、なかなか離れません。

牛は一生懸命走りに走って自分の牛小屋に逃げ帰りました。

家の人は、この有様をを見て、

「大変だぁ。大蛸が牛に乗っているー。助けてくれ。」と叫びました。

近所の人たちが総出で、やっと大蛸を退治することができました。

その大蛸は、300人以上の村人たちが三日間かかっても、食べることができなかったという事です。

このことがあってから、この海岸を蛸埼と呼ぶようになったということです。

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さかいでの昔ばなし(与島の妙見さん)

与島の浦城に天津神社があります。この神社はずっと昔、妙見さんと呼ばれていました。
昔、与島に勘助という船乗りがいました。勘助は背が低く体も小さかったので、力仕事ではどうしても仲間達に負けました。
勘助は妙見さんに「どうぞ、私に大力をお与え下さい」と願をかけました。すると妙見さんは
「わしの住んでいる社の石垣が壊れているから、毎日下から石を運んで直してくれ」
「直してくれたら、お前に力を与えてやろう」と勘助に言いました。

勘助はそれから毎日毎日石を一個ずつ海岸から妙見さんに運んでは社の石垣を直していきました。
日が経つうちに勘助は一度に大きな石を二つも三つも持てるようになっていきました。

ある日のこと、
舟の帆柱を抜く作業をみんなですることになりました。舟の中心にある重たい帆柱は何人もの人でないと抜けません。
ところが勘助がいとも簡単にひとりで帆柱を抜いてしまいました。

みんながびっくり仰天したことは言うまでもありません。妙見さんが勘助に力を与えたのでした。

毎日、毎日、海岸から小高い所にある妙見さんに石を運んだので知らず知らずのうちに力持ちになったのかも知れません。

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さぬきの昔ばなし(ぜんわん岩)

遠い昔、田中村(木田郡三木町)の庄屋さんのうちで、息子の婚礼があったんや。
婚礼の日はあさってやというのに、二,三十人前のおぜんが足りん。心当たりをたんねてみたんやけど、どうしても足りんで、庄屋さんは困っとたんや。

そこに、ひとりのお年寄りがたんねて来て「おい!庄屋。わしは三つ子池の主じゃ。いつも正直なおまえに免じて、足らんおぜんとおわんを貸してやろう。あさっての朝早うに池の下の大岩へ行て、頼んでみい。けど、返す時にはけっこにそろえて、元のとこにまんでしのべとくんぞ」。そう言うと、その姿はじきに消えてしもうた。

庄屋さんは約束のあさってが待ちきれんで、夜が明けるとすぐに夢うつつで聞いた大岩の前に行って「明日の朝、早うに参りますけん、どうか足らんぜんわんを三十人前お貸し下さい」と祈ったんやて。

翌朝、約束の時刻に大岩に行くと、ちゃんと三十人前のおぜんとおわんがそろえてあったんや。庄屋さんはほんどり喜んで、めでたく婚礼をすますことがでけた。

ほんで、借りたぜんわんをけっこに洗うて、まんでそろえて、厚くお礼を言うてもどしたんや。それからは、だれかれなしに、寄り合いをする時にはこの大岩に来てぜんわんを貸してもらいよったんやって。

ある時、ひとりの横着者が借りたぜんわんをめいだんやがな。つくろいもせんまま「ひとつ二つめげとってもわからんわ。かもか」と大岩にめいだ断りも謝りもせんで、だまって返してしもうたんや。

それからは、だれが、どなに頼んでも、大岩はぜんわんを貸してくれんようになってしもうたんやと。

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坂出の昔ばなし(大師泉)

理源大師は沙弥島の生まれです。
お父さんもお母さんも京都の高い位の人でしたが、お父さんが罪人とされ、この辺りの島に流されてきました。
しばらくしてお母さんも京都からお父さんの下に来ることになりました。
そのうちに沙弥島で大師が生まれたのです。
何年かたって、お父さんが許されて京都に帰りました。

理源大師は子供の時から頭がよく、その上一生懸命勉強や修行を重ねたものですから、遂にはえらい坊さんになり、京都の醍醐寺を建てました。
若い頃、修行のため、自分の生まれた沙弥島をはじめ、讃岐の国へもやってきました。

讃岐の国は昔から雨が少なく日照りの多いところで水不足に悩んでいました。
そんなある日。理源大師がここ御供所にやってきました。
「理源さま、飲み水が無くて困っております。毎日が死ぬ思いです。」
聞けば、もうひと月も雨が降っておらず、村の井戸という井戸がかれ尽くしているとのこと。村人たちの様子から困っている様子がわかります。

理源大師はお経を唱えたのち、持っている杖で岩を強く叩きました。
するとどうでしょう。水がわき始めました。この井戸は大師泉と呼ばれ、大潮の満潮時には海水がこの井戸に流れ込むのですが、井戸に入った海水はすぐに真水になる不思議な井戸です。

少し前までは、子供たちは、ここ御供所の海水浴場で泳いだあと、この泉で塩気を流して家に帰って行きました。Photo

さぬきの昔話(おろくダヌキ)

昔、ある山の上に本法寺(綾川町羽床下)という寺があり、そこには「ねぜり松」いう昼でも暗いぐらいようけ枝をはっとる松の木があった。
その幹の根元近くの穴に一匹のタヌキが住んどって、「おろく」と呼ばれよった。おろくはいたずらもするけど、不思議な力も持っとって、愛嬌があった。ほんで、寺のためによう尽くしたということや。

本法寺では仏さんを「なむみょうほうれんげきょう」と拝むんやが、そう拝まん人が寺に来ると、おろくはその人を寺に入れんようにするんやと。なんぼに門に近づけんで、いつまでもぐるぐると塀のまわりを回って「どうしたこっちゃ?」とへとへとになって座り込む人に、通りがかった村人は「あんた、おろくに化かされとるんや。なむみょうほうれんげきょうと一心に唱えてみ」と声をかける。
震えながら、目をつむってそう唱えたら、どうな。目を開けるとちゃんと本堂の前に立っとんやと。

それから、しょうねの悪い人には砂の雨を降らすんや。ザラザラザーとそらすごい勢いで降らすんで「うわぁ、おろくに見抜かれとる!もう悪い心は起こさん」いうて降られた人は逃げて行く。

また、おろくははよう気がつくたぬきでな。寺のおじゅっさんや小僧さんがばんげに帰ると、灯りをもって出迎えるんや。「おろく、おろく」いうて呼ぶと、灯りをもって出てきて、尾を振ったり、とんだりはねたり、後に先になって迎えてくれるんやと。

だいぶん時が経って、おろくの住んどった「ねぜり松」が切られてしもうた。ほんでもおろくはどこかに住み家を構えて、十五夜の満月の晩には「ぽんぽこ ぽんぽこ」と腹つづみを打って、ふもとの村に心地よい音を聞かせてくれたんやと。Oroku

坂出の昔話(三味線島のはなし)

今はもうすっかり陸続きになってしまっているのですが、番の州公園の北の方に二つの島がありました。

東の方の島を瀬居島、西の方の島を沙弥島と言いました。
ところが、大昔にはこの二つの島は、三味線島と呼ばれひとつの島でした。

 

何故このひとつの島が二つに分かれたのでしょう。

 

昔、三味線島には東西に二軒の金持ちがいました。東家と西家です。
どちらの家も大きな舟を持ち、大勢の奉公人を雇って堺や長崎の商人と商いをしていました。
東家には清吉、西家にはしのぶという娘がおりました。おそらく清吉としのぶが夫婦となって両方の家が益々栄えていくだろうと、みんな思っていました。

 

さて、東家の雇い人におみのという器量よしで働き者の娘がいました。東家の清吉は実はこのおみのが大変好きでした。またおみのもりりしく働く清吉が好きでした。

 

西家との婚礼話がおこった時、「私はおみのを妻にしたいのです。すいませんが西家さんに断ってくれませんか。」とお父さんに頼みました。
「馬鹿をいうな。おみのはうちの女中ではないか。東家と西家が結ばれるということは家にとってもお前にとってもいいことなのだ。おすみのことは忘れてくれ。」

 

それから間もなくして、東家からおみのの姿が見えなくなってしまいました。
清吉はたいそう悲しみました。

 

ある秋の夜のことです。朝からどんよりと曇っていた空から大つぶの雨が降り始めました。
風が強まってきました。台風です。何と七日間も嵐が続きました。
そして、それが収まったかと思うと今度は大地が大きく揺れる大地震がやってきました。続いて大津波がおそってきました。「逃げろ。逃げろ。」人々は島の高台に懸命に駆け登りました。

 

恐ろしい夜が明けました。

 

「あれ!。島が二つになっている。」
人々の指さす方を見ると三味線島はまっぷたつに分かれています。

 

人々は西の島を「しゃみ島」、東の島を「せん島」と呼びました。
二つの島を合わせると、元の「しゃみせん島」になりますね。

 

「せん島」はのちに「せい島」と呼ばれるようになりました。

 

また津波のためにできた州を「一晩でできた州」ということから、「ばん(晩)の州」と呼ばれるようになったということです。

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この話、名前の由来が分かり、へぇ~と思ったが、肝心の清吉とおみのの恋物語はどうなったの???

島がふたつに分かれたのは、二人の仲を引き裂いた崇り? 一体誰のたたり?

国分寺の鐘

昔、安原(高松市塩江町)の百々が淵(ドウドウガブチ)と言う底なし沼に人をさらう大蛇がおった。
困った村人は、別子八郎と云う弓の名人に大蛇退治を頼んだんや。
八郎は自慢の弓矢を持って、百々が淵に行った。
ばんげになると、ギラギラ光る大蛇の目が見えた。八郎はその頭めがけて矢を放ったんやが、カチンカチンと跳ね返る。
なんと大蛇は頭に鐘をかぶっとったんやがな。そいで八郎が信心しとる国分寺の観音様にお祈りして出直すと、今度は見事に大蛇を射とめる事ができた。

大蛇の死体は、その晩に降った大雨に流され、遠く香西の海にうかんどったそうや。観音様のおかげ、と八郎は大蛇のかぶっとった鐘を国分寺に奉納した。

その鐘の音はなんともええ音で、村中に響き渡ったんやと。
数年後、国分寺を参った高松城のお殿様がこの鐘の音をがいに気に入り、お城に持っていぬと言い出した。

寺はしぶしぶ差し出したんやが重うて動かん。五十人の大男が何日もかけて城まで運び、鐘をついてみたが、ならんのや。力自慢が何人もでついて、やっと音が出たが「こくぶへいぬ。こくぶへいぬ」と泣くように聞こえるんやそうな。

「鐘がものいうた国分の鐘が。もとの国分へいぬというた」
いう歌が城下にはやりだし、殿様は病気になった。困ったことが次々とおこるんで、鐘を国分寺へ戻すことにした。国分寺にはたった八人で、一日で運ぶことができたんやと。

国分寺に戻った鐘は前よりよう響いて、人の心を和ませた。ほんで、この鐘は不思議に冬でも汗をかいていることがあるそうや。

「鐘がなるなる 国分の鐘が 三里聞こえて 二里うどむ」

今でも土地の人々は、この鐘の音を聞きながら歌うそうじゃ。

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さかいでの昔話(悪魚退治にまつわる地名)

悪魚は日本武尊と八十八人の若者によって退治されました。
その悪魚が死んで流れ着いたところが坂出の浜です。

「悪魚はものすごく大きな魚」と、言い伝えられていますが、一体どれくらい大きかったのでしょう。
面白いことに現在の坂出の地名の中にその事を表す地名が残っています。

まず、八十八人の若者達が、冷たい泉の水を飲んで生き返ったという、その泉のある所が西庄の「八十八」です。
現在も八十八の泉からは冷たいきれいな水が湧き出ています。

また死んだ大魚の尻尾があったあたりが「江尻」と呼ばれています。

大魚の鰓(エラ)があった所を「福江」。

そして、大魚退治をした日本武尊や八十八人の若者を祝って宴会をした所が「御供所」。
また、大魚の「ヘソ」を祭った神社を「へその宮」
大魚の死骸を祭ったところが「魚御堂」です。

「へその宮」は坂出市富士見町二丁目の西山八幡宮の別名です。

「魚御堂」は文京町の坂出高等学校の校庭に現在も残っています。

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さかいでの昔ばなし(悪魚退治)

昔々、瀬戸内海に大きな魚がいました。この魚は、瀬戸内海を通る舟を沈めて積んである荷物を奪ったり、時には大きな口を開けて人々を呑んでしまったりしていました。この辺りの人たちは『大悪魚』と言って恐れていました。

「何とかしないと。安心して暮らしていけぬ。」
そこで、京にのぼって、日本武尊に悪魚を退治してくれるよう頼みました。

「ひきうけた。帰って力の強い若者を八十八人集めておけ。それと大きな舟を用意しろ。その舟のへさきで、かがり火がたけるようにするのじゃ。」
しばらくして日本武尊が、坂出にやってきました。
「えぃ!やっ!。」
さっそく、八十八人の若者に悪魚との戦い方を教えました。
ある日、用意された舟に武尊と八十八人の若者が乗り込みました。いよいよ悪魚との戦いです。

舟のへさきは、かがり火が赤く燃え上がっています。

「出発!」沖へ沖へと舟は進みます。
どれくらいたったでしょうか。あたり一面が暗くなり始めました。
その時です。はるか遠くの波が大きな壁のようになって押し寄せて来ました。
真っ黒い大波です。「がばっ-」
悪魚は大きな口を開けて舟もろとも一気に武尊と八十八人の若者を飲み込んでしまいました。

ここは悪魚の腹の中です。
-どくっ。どくっ。どくっ。-
武尊が気づくと周りには八十八人の若者が気を失って倒れています。
武尊は刀を抜きました。「えいっ-。」武尊は悪魚の腹を力一杯切り裂きました。
悪魚は大暴れです。しばらくすると静かになりました。武尊が出てみると悪魚が死んで横たわっています。
「やった-。やった-。」「武尊が悪魚を退治した-。」人々は大喜びです。

人々は西庄の泉から水を汲んできて、気を失っている若者達に飲ませました。八十八人の若者は生き返りました。そして、ご馳走を出して勝利を祝いました。

このことがあってから西庄の泉を「八十八(ヤソバ)の泉」、ご馳走を食べみんなで祝った浜を「御供所」と言うようになりました。

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さぬき昔ばなし(狸のばけくらべ)

昔、屋島のはげ狸と阿波の狸がばけくらべをしました。
屋島のはげ狸は源平合戦の場面が得意、一方阿波の狸はいつも大名行列をみせるのが自慢でした。

さて、対決の日。はじめは屋島のはげ狸の番でした。

屋島の沖一面に船を浮かべ、海には平家、陸には源氏の軍勢が押し寄せます。
屋島のはげ狸は自分の演技にすっかり満足して勝ったものと得意になっていました。

いよいよ阿波の狸の番です。

向こうの道から大名行列がやってきました。大勢の家来を引き連れています。あまりに上手だったので、屋島のはげ狸は感心して、「これは阿波の狸どの、でかした。」と、行列の前にのこのこ出ていくと、なんとそれは本物の行列だったのです。

屋島のはげ狸はたちまち捕らえられてしまいました。(高松市)

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